『店舗』というメディアの意義は、異世界へのなめらかな移動にある
『店舗はメディアである』と言い続けて早7年以上が経ちますが、『メディア』の中でも私が好きなのは店舗や雑誌、本といったフィジカルなメディア。
こうした身体的接触性の高いメディアがWebメディアやアプリなどのデジタルメディアと大きく異なるところは、あとから削除や修正がしづらい『不可逆性』にあるのではないか、ということに最近気づきました。
IT出身の人とメーカーや小売などリアルなものを扱ってきた人とで決定的に違うのが『とりあえずやってみよう』への意識の差だと思っていて、これはどっちがいい/悪いではなく扱ってきたものの特性が異なるので仕方がないこと。
リアルなものを作ってもすぐに在庫がデリートできるなら誰でもとりあえず作ってみるし、新機能を削除するのに膨大な処理コストがかかるとなったら作る側もはじめから慎重になると思います。
あと50年くらいしたら人間も身体性を失って存在できるようになるかもしれないけれど、今のところしばらくは人間という定義が身体という容れ物に紐づいているかぎり、私たちはフィジカルな世界からは逃れられません。
つまりリアルという不可逆性の高い世界に向き合い続けるしかない。
そして不可逆性が高いということは失敗しないようにひとつひとつの決断への思考を練り上げる必要があるということであり、立ち戻る理念や思想の軸を固め続ける必要がある、ということでもあります。
私は『続いていくもの』への関心が高いので、いかに長く時代にフィットしつづけられる思想を実装できるかをよく考えるのですが、その中でも『店舗』にもっとも興味があるのは、パッケージとしての寛容度が雑誌や本より高いからかもしれない、と最近ふと思いました。
3ヶ月くらい前に伊勢丹を見て回っていて特に感じたのですが、店舗は雑誌に比べるとお店というひとつのパッケージ内に異なる世界観を収容する許容度が高いんですよね。(あくまで大型店舗に限るけれど)
例えば伊勢丹の場合、2Fのワンフロアの中だけでキャリア系からモード、ロマンチックで個性的なスタイルまで様々なカテゴリのブランドがひしめきあっています。
雑誌でいうと6、7種類くらいに分けられそうなブランドをワンフロアにまとめても違和感がないのは、リアル店舗というのは『場所が私たちを包む』という構造になっているからなのではないか、というようなことをフロアを歩きながら考えていました。
例えばディズニーランドひとつとっても、本や映画にするとひとつの世界観に凝縮されていたものが、パークというリアルな場に転嫁されることによって別の世界同士をつなげ、共存させることができている。
つまりリアルな店舗の意味というのは、よく言われる
①潜在需要の発見性の高さ
だけではなく、それに加えて
②別分野をなめらかにつなぐこと
でもあるのではないか、と思ったのです。
最近の私の課題感のひとつとして、今後40代以降が圧倒的にファッション難民になっていく中で、これまでの富裕層ラインとは違う『普通よりちょっと上質』なスタイルの提案とそれを実現するブランド、そして新しいスタイルに出会うための機会という3つを揃えること、というものがあります。
今の40代以降の人たちは、これまでのイメージよりもそれぞれ10歳ずつくらい心身ともに若くなっていますが、そこに対応するブランドも雑誌もなく、ロールモデルやシンボルを失ってしまっています。
特に子育て期間に忙しすぎて雑誌やSNSで情報収拾をしてこなかった人たちは、やっと子供の手が離れた瞬間『出産前の服はもう若すぎるし、かといっておばさんっぽい服も嫌』など迷子になりやすく、そもそも『何の雑誌を読めばいいんだろう』というところから悩む人の声をよく聞きます。
ここの市場は今後大きな可能性がある分野だと思っていて、まず①ブランドとスタイルの選択肢を広げること、次に②スタイルを提案するメディアを作ること、そして③スタイルを発見できる場を作ることが今後求められていくのではないか、ということを考えていました。
もちろんこれは40代以上に限らず、検索やInstagramで完結できない、フィジカルな『スタイルの展示会』のような場所は年齢や性別に関係なく求められていくはずです。
『店舗の意義』についてあれこれ議論が交わされている昨今ではありますが、この『自分の延長線上にない異分野へのなめらかな移動』という感覚は店舗にしか実現できない役割なのではないか、ということを考えたここ最近でした。
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今日の余談は、無料部分に書いた『40代以降のファッション』について最近考えていること。特に役に立つような話ではありません。
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