涙の数だけ、幸せな記憶は蘇って
久しぶりに、小説を読んで泣いた。そういえば、前回泣いたのも同じ書き手の物語だった。
凪良ゆうさんの作品は、なぜかいつも私の心の一番柔らかい部分に届く。
「わたしの美しい庭」は、そのあらすじから穏やかな読みやすい話だろうと想像して手に取った。実際に、途中まではほのぼのとした物語が続いていった。血は繋がっていなくても、家族のように毎朝一緒にごはんを食べる三人の日常。その背景にあるそれぞれの事情が暗示されつつも、過去ではなく今目の前にある幸福な関係性を素直に受け取っている人たちの物語だ、と思った。
この作品は、五つの章に分けられている。二つ目の物語が「あの稲妻」と題した章だ。そこで新しく登場するのが親に結婚をせっつかれ、お見合い話を毎回断りきれずにいる39歳の桃子さん。途中までは、彼女の迷いや苦悩にふんふんと軽く共感していただけだった、のだけど。
物語が終盤に入ってから畳み掛けられるように明かされる真実が、そしてその過去と向き合う登場人物の描写が、まっすぐに私の胸を刺した。まるで自分のことのように、気づけば涙が溢れていた。
作中で、登場人物が茨木のり子の「歳月」という詩を読むくだりがあった。
タイトルの「稲妻」はここからきていたのか、とこの詩を読んでやっと合点がいった。結婚生活二十五年目、48歳にして夫に先立たれた茨木のり子はその後も独身を貫き、80歳まで人生を全うした。
二十五年といえば銀婚式の年なので、二人で過ごした時間としてはじゅうぶん長いとは思うけれど、結果的に寡婦となってからの年月の方が結婚生活よりも長くなっていたことを考えると、彼女にとってはたしかに「短い年月」だったのだろうと思う。
でもどちらにせよ年月の長短ではなく、一瞬の稲妻のような真実を、彼女は抱きしめて最後まで生き抜いた。
この茨木のり子の詩を読んだ桃子さんは、たとえ世間から理解されずとも
自分にとっての「稲妻のような真実」を大切にしようと決意する。
はたから見て不幸でも愚かでもいい、私のなかの真実は私だけが知っているのだから、というスタンスは凪良ゆう作品に通底するテーマでもある気がする。ちなみに最新作の「汝、星のごとく」でも似たようなフレーズが出てくる。
きっと桃子さんの想いは、ほとんどの人には理解されないだろう。「普通」は時間とともに傷は癒えるし、別の大切なものもできる。みんなそう言って励ますし、実際にたくさんの人がそうやって乗り越えて次に進むのが「普通」なのだろう。
でも、どんなに時間が経っても遠ざかることのない、胸の深いところに刻まれるものも、たしかにある。いつまで経っても忘れられないのは「普通」ではないのかもしれない。その思い出にとどまったまま次の一歩を踏み出せないのは、不幸で愚かに見えるかもしれない。でも、その「普通」にあわせられない、どうしようもなさが恋なのだ、とも思う。
そして思い出すたびに涙する。でもその涙は、楽しかった、幸せだった日々があったからこその寂しさからくる涙だ。そこにはたしかに幸福があって、満たされていた、という証拠としての涙。それは本当に、他人が思うほどかわいそうなことだろうか。何度も反芻しては涙できるほどの思い出があるのは、むしろ幸福なことなんじゃないだろうか。
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最近、ひょんなことから「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」をいまさら見始めた。
物語のなかで、登場人物たちそれぞれがいろんな人のことを想って泣く。亡き母、別れた想いびと、離れて暮らす祖父、叶わない恋。でもその涙は、幸福な時間をあたたかな場所で思い出しながらじんわりと湧き出てくるような印象のシーンが多い。一緒に暮らした時間が、その存在があまりに大切だったから、離れてその相手を思うときには涙がでる。
ドラマでは登場人物たちが置かれている厳しい境遇も描かれていたものの、思い出して泣けるほど幸福だった頃をそれぞれが持っている、というのは物語のなかで大きな救いだったような気がする。
悲しいことや辛いことは、少ない方がいい。でも出会いの数だけ別れがあるのだから、幸福のぶんだけ悲しい別れもある。大切なものを失うのは寂しく、辛い。でも泣けるほど別れたくないと思えるものや人や場所と出会えたことは絶対に幸福なはずで、時間が経つほどにその涙が心を温めることもある。
どれだけ年月が経とうとも、思い出すたびに枯れることのない涙。それはきっと、たった一度の「稲妻のような真実」が生み出した幸福によって、支えられているのだと思う。