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偶然入ったうどん屋さんで、「幸せとは何か」を学んだ話

先日、縁あって福岡・糸島を案内してもらった。

福岡は地元なのだけど、糸島は車で行かないと不便なエリアなので、博多や天神に行ったついでに、と軽い気持ちで寄れるような場所ではない。地元・九州の人たちはほとんどが車を所有しているから週末になるとあらゆる九州のナンバーを付けた車が集う人気観光地だが、九州外から来た観光客には意外と知られていないことが多い。

私も、現在はほぼ東京の人間なので糸島に行ったのはだいぶ前に友人に連れて行ってもらった一回だけ。糸島は今でこそ人気観光地になり朝ドラの舞台にまでなったが、おしゃれなカフェやショップが増えて盛り上がりはじめたのはこの十年ほどの話で、私が地元で暮らしていた時代は九州人ですらわざわざ観光に行くようなエリアではなかった。

それが今や、九州人で知らない人はほぼいない大人気の道の駅「伊都菜彩」をはじめ、サーフカルチャーをベースにしたアメリカ西海岸やハワイのような雰囲気のおしゃれなお店があちこちにでき、若者も集う人気エリアになっている。

私が初めて糸島を訪れた時も、そんなおしゃれなレストランやショップに連れて行ってもらい、楽しい場所だった、という印象が残っている。

それはそれで糸島の正しい楽しみ方ではあるのだけど、今回は現地で事業を営む友人たちが歴史や文化の観点も交えながらより深く糸島をガイドしてくれるということで、しっかりフルコースで満喫させてもらった。その対話の中で、九州という自分のルーツと改めて向き合い、新たな発見も多々あったのだけど、それはまた別で書くとして、今回は偶然に見えて実は必然だったのだと気づいた瞬間の話をしたい。

たまたま入ったうどん屋さんで、私が「幸せの味とは何か」への答えのひとつを見つけた話。

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糸島旅の初日、朝から盛り上がりすぎて各所で予定滞在時間をオーバーし、すっかりお昼時を逃してしまった。東京と同じく大抵のお店は14時頃でランチタイムは終わる。軽く食べたい気持ちはあるけれど、夕飯も満喫したいし無理して食べなくてもいいかも、あとでパンでも買って食べる?などと相談しあっていた。

そのとき九州人の私は思った。

軽く食べたいならうどん一択だろうと。

九州人が適当にお昼をすませるとき、選択肢は2つしかない。うどんか「うまかっちゃん」である。我々九州人は、何も予定がなく遅く起きた朝は適当にうどんを食べにいくかうまかっちゃんを茹でる。今回は自炊ができないのだから、うどんを食べる以外の選択肢はないだろうと。

東京育ちばかりのメンツに「うどん…??」と怪訝な顔をされたので、いかに九州のうどんがソウルフードであるかを懇々と説いた。やわやわの麺、ちょっと甘みのあるスープ、じゅわっと染み込むごぼ天。この文明が、まだ東京人たちにはもたらされていなかっただと!?

これはおおごとである。

九州人はとんこつラーメンよりうどんの方が圧倒的に食べる。これは博多華丸・大吉もタモリさんも言っていた。それはつまり、実質的には九州民の総意である。

九州に降り立った旅人よ。地元民にはラーメンではなくうどんを聞きなさい。

これは私が責任を持って、彼らを九州のうどんに出会わせ、蒙を啓かなければならない。数千年前に日本へ渡ってきた渡来人たちもかくやと確固たる使命感を抱きつつ、近くにうどん屋さんがあるということで早速お店へと向かった。わざわざ人気のお店かどうかを調べずとも、その辺にあるお店に適当に入っても九州のうどんはすべてうまいのである。よって近いところにあればなんでもよい。

九州のうどんというカテゴリへの絶大なる信頼ゆえにお店そのものには特にこだわらずに入ったつもりだったのだけど、これがなんと偶然にもとんでもない当たりのお店だったのである。

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お店に入ると、半円型のカウンターの中央でお母さんがうどんを茹であたり天ぷらを揚げたりしながら、いらっしゃい、と優しく声をかけてくれた。

お母さんの調理風景。隅々まで使い込まれた環境が長く愛されてきた証

ああ、ここは長年地元で愛されてきたお店だと入った瞬間にひとめでわかった。客席や厨房のすみずみまで、気取らない日常を着実に重ねてきた雰囲気が漂っている。

これぞ、実家のような安心感。全員の顔がふっとゆるんだ。

キッチンはお母さんひとり。テキパキと注文を捌き、麺を茹で、天ぷらを揚げ、と大忙しな中でも私たちのおしゃべりに付き合ってくれた。

私は標準語モードの時はお店の人にはあまり話しかけないのだけど、九州弁のときは九州のおばさんモード全開で、知らない人にもガンガン話しかけにいく。

今回も、「東京にごぼ天はなかですもんねえ」とか「うどんスープの味が福岡はまたちょっと違って甘からしかですもんねえ」とか、九州のおばさんモード全開でお母さんに絡みまくっていた。

5人分の注文をテキパキさばきながらも、しっかりおしゃべりにも付き合っていただいて感謝

厨房にはお母さん一人だったのだけど、普段から一人で回していると聞いて驚いた。しかも最近まで年中無休でお店を開けていたらしい。定休日を作ろうと思ったことは何度もあったけれど、火曜日にはいつもあの人が来てくれるし、月曜日はあの人が…と常連さんの顔を浮かべるとなかなか定休日の曜日を決められず、毎日年中無休でお店に立ち、うどんを茹でてきたという。

しかしさすがに年齢を考えるとそろそろ、と常連さんたちから「もう月火は休むって貼り出しましょう!」と定休日を店内に貼り出されたことで週休2日制になったそう。長く続けてもらいたいからとお客さん側からの提案で定休日をつくったというのは、なんとも仕事冥利に尽きる話である。

でもそのお休みで何をしているかというと、釣り、登山、ファミリーバトミントンなどアクティブすぎなのである。休みの概念がゲシュタルト崩壊した。

雰囲気も元気いっぱいの印象だったのでまだお若いのだと思っていたら、「おばちゃんもねえ、もう⚪︎歳やけん」と年齢を聞いてさらに驚いた。10歳以上若く見える。この年齢でこんなにもアクティブさを維持できるのか!と自分の将来への希望にもなった。

そんなこんなを話していたら出来上がったのが黄金のスープに正義をこれでもかと詰め込んだ九州のソウルフード「ごぼ天」。ああ、見た目からしてもうおいしい。

ごぼ天うどんを食べずして九州を語ってはならない

みんなが九州のうどんを初体験したリアクションを期待していたら、その前にあまりのおいしさに私が

うんまあああああああああああああああ!!!!!!!

と特大のリアクションをしてしまった。人間の余裕を奪うほどの圧倒的うまさの前に、我々はひれ伏すことしかできない。

私は地元でも好きなうどん屋さんはいくつかあって、おいしいと言われるところにもある程度行ったけれど、この日のうどんはその中でもダントツレベルでおいしかった。

丁寧にとられた出汁が重層的で奥行きがありながらも、優しさと愛情で包まれたスープの味。お母さんがこのお店を一人で切り盛りし続けてきた40年の歴史の重み、お客さんたちへの愛など、素材の良し悪しや調理技術だけではない、長年やり続けきた人だからこそ出せる「味」。

お母さんの人生ごと詰まっている、それだけの思いをかけて作られてきたことがわかる、おいしいとかおいしくないとかの次元を超えた「すごい」うどん屋さんだった。 

おいしさそのものは、理論と経験によって一定のレベルまでは引き上げることができる。素材の組み合わせや調理の仕方にはセオリーがあって、この組み合わせは鉄板だよねとか火の強さ、長さ、タイミングはこうだよねとか、言語化して伝えられる部分は多い。

けれど、今回このうどんを食べて思ったのは、味としての「おいしさ」を超えた、口にするだけで涙が出そうなほどの感動をつくるのは、結局つくる人の人間性である、ということだ。

うどんのスープを一口飲んだ瞬間に、目の前にいるお母さんの優しさ、人としてのうつわの大きさ、温かさがそのままスープに溶け込んで、体の中に入ってきた気がした。そして何より、この人は幸せに満たされてうどんを作ってきた人なんだなあ、と直観で思った。身を削って自らを痩せ細らせながら作るのではなく、満たされて余ったものを分け与える感覚でおいしさに向き合ってきたんじゃないかなあ、と。うどんをつくって、おいしいと喜ばれることが幸せで、だから一生懸命にうどんを作っている。そんなシンプルな、でも実現するにはすごく難しくてなかなか凡人には到達できない感覚で、毎日お店に立っている人なんだろう、と。

そう感じたのは待っている間にカウンター越しにお母さんと会話をしたのも大きいかもしれないけれど、「おいしい」は味覚だけじゃなくて、もっと全身で感じる、総合的な感覚なのかもしれない、と初めてそこで気付かされた。

と同時に、言葉にせずとも、いやむしろ言葉ではないからこそ、こうやってその人となりを知ることはいくらでもできて、でもそれをおいしいとか頭がいいとか細分化して何かに当てはめようとするから、逆に体感としてわからなくなって言葉にせざるをなくなっていることも多いんじゃないか、と。

お母さんはきっと、ただおいしいものを食べてほしいという純粋な思いで、この40年の毎日を試行錯誤しながら過ごして今のこの味にたどり着いたのだろう。この凄みは、セオリーやテクニックだけでは到達できない。だからといって、時間を積み重ねればいいわけでもないし、ストイックに突き詰めようとすると逆にこの味の包容力は出せない気がする。

ただ受け取る側の幸せを思って目の前のひとつひとつを積み重ね続けていくこと。そして、その積み重ねの過程で自分も幸せに満たされていく、このサイクルをちゃんと回していくこと。言葉にするとシンプルだけど、これが一番難しい。

何かに到達するために逆算するのではなく、いま目の前にいる人たちに向き合っていれば、ちゃんと辿り着くべき場所に辿り着く。むしろ、初めから描いていたら辿り着けないようなゴールに、辿り着くことがある。完全に無計画でもダメだけど、計画しすぎるとうまくいかないこともある。その絶妙なバランスが調和したものを体験して、このことが頭ではなく腹落ちして理解できた。

おでんもあるレトロな店内

ちなみに、こんなにアクティブなタイプなのに年中無休で働いてたなら旅行する暇もなかったんじゃないですか、とお母さんに聞くと、そうねえ、年に一回休みをとって周りの婦人クラブで慰安旅行するくらいだったねえ、と話してくれた。でもお母さんの話はとても多岐にわたっていて、休みもとらずにずっと働き続けてきた人とは思えない豊かさがあった。

あちこち飛び回らなくても、ひとつの場所でしっかり根を張ってやっている方が、逆に多様な生き物が集まる場所になっていることがある。お母さんのうどん屋さんは、まさにそんな場所だった。

偶然入ったうどん屋さんだったのに、これまでぼんやり考えてきたこと、問いを持ち続けてきたことへの解というか腹落ちする瞬間が立て続けに起きて、偶然と必然の境界も曖昧なものなのかもしれない、と思った。今回の旅でこのうどん屋さんに来るのは必然で、むしろそのためにいろんな偶然が重なってくれたのかもしれない、と。

今回そんな気づきをたくさんくれたのは、糸島の伊都国歴史博物館の近くにある「ひなたうどん」。

お店の佇まいからしてもう最高

糸島に二店舗あって、Google検索すると2号店の方がヒットしやすいのだけど、私が行ったのが本店で、2号店の方は息子さんがやっているのだそう。2号店の方もおいしいと後から聞いたのだけど、ぜひお母さんに会いに、本店の方にも行ってみてほしい。一応最寄駅は周船寺だけど、車がないと行きづらい場所なので車で糸島をめぐる際にぜひ。

幸せに気づく瞬間はふとしたところに転がっていて、偶然によってもたらされることも多い。その偶然に気づけるように、人のまごころや温かさに気づけるように、そして自分もそうやって受けたものを誰かに渡していけるように、また明日から目の前のことにひとつひとつ向き合っていこう、とパワーをもらった糸島への旅だった。

今回ガイド兼ドライバーを務めてくれたふみやくん。学芸員さんかと思うほどの知識量と不測の事態や無茶振りへ即座に対応するマネジメント力、人の懐に入る愛嬌すべて兼ね備えたとんでもない逸材です。

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最所あさみ
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