2024/03/01 BGM: The Jackson 5 - ABC
ついに3月が始まった。今朝、イオンに行きそこで宿題の残りを片付けてしまうことにした。英語研究会の課題である、日本の知識人・岡倉天心『茶の本』の英語版を精読するというのがその課題だ。読みながら、実にうならされてしまった。この英語の文は、100年以上前に書かれたものであるにもかかわらず(岡倉自身の英訳によるものらしい)いまに至るもあざやかにその息吹を伝えている。あんな大昔に、日本はこんな鋭い感覚を備えた知識人を持ち得ていたということに感服してしまった。
そしてこの『茶の本』は、この日本という国がこのぼくをどのようにしてこんな人間にまで育てたのかまでも思い至らしめる。この思考・この考え方はどう「日本に生まれ育ったこと」によって影響されたのか。読みながら、ついつい少しずつ自省してしまう。この文はその意味で「鏡」にも似た魔力を備えた古典だと思った。読みながら、最初は「古臭いし、学ぶべきものなんて何もないだろう」とナメてかかっていた自分を深く深く猛省させられた。いや、「我が不明を恥じる」とはこのことだ。実に面白いエバーグリーンな文だ。
日本について考えると、ついついぼく自身でさえステレオタイプ(紋切型)の発想に寄りかかってしまう。1度しか読んだことがないので気が引けるが、たぶんエドワード・サイードが「オリエンタリズム」と形容した考え方がこういうものなのだろうと思う。でも、『茶の本』はこうして大局を見渡せる偉大な「グローバル人材」が過去にいたことを示していると思った。こんな人がどうして可能だったのか。実にワンダフルな事実だ。
読み終えて、その後アメリカの友だちとメッセンジャーで話す。彼女はぼくの英語を褒めてくださって、それにぼくの日記の内容も実に深く深く読み込まれており光栄の至り。この日記でも前に書いたけれど、ぼくの英語の書きものがぼくとさまざまな人をつなげていることに驚きを禁じえない。ぼくは実は、書くものを「キャッチー」「ワクワクするもの」にしようと思ったことはない。ただぼくの眼から映る真実をそのまま、べったりと書いているだけだ(英語で書くと小難しくなるのがつらいが)。ぼくも二代目岡倉天心を名乗れるだろうか……冗談が過ぎた。お後がよろしいようで。
ある知人が、英語の先生を目指したらどうだと薦めてくれた。英語力を試すためにIELTSを受けたら、と。調べてみたい。でも、オーラル・コミュニケーション(口を動かして実地で「しゃべる」「話す」練習)を積まないといけない。テストを受けるかどうかは別としても、国際的な基準に照らし合わせて英語力を測ることに興味を抱き始めてしまっている。
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