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フランク・ダラボン『ショーシャンクの空に』
フランク・ダラボン『ショーシャンクの空に』を観る。また話のマクラに観念論かよ、と思われるかもしれないのだが、この映画を観直してふと「自分はいつの間にか、夢を語ることを忘れてしまっていたな」と思った。もちろん世の中そんなに甘いものではない。夢が必ず叶うことなんてありえないし、下手に身の丈に合わない夢を持って生き続ける人より手堅くドライに人生を生きている人の方が私とは相性が合うっぽくもある。私もどっちかと言えば「しょせん夢は夢」と居直って生きていたところが(特に40代になってから)あったのだけれど、今回の再鑑賞で「それでも、夢を追うことや希望を語ることは大事なのかもしれないなあ」とも思ったのだった。その意味では魔性の映画かもしれない。
現代の語り部スティーブン・キングが描くこの映画は、ネタを割ってしまうと20年越しの脱獄を果たす話である。ティム・ロビンス演じるアンディとモーガン・フリーマン演じるレッドの堅い友情を軸に、いかにもモーガンに相応しい酸いも甘いも噛み分けたレッドがそれこそ物語の狂言回しとして話を語っていくのだけれど、この設定を原作からそのまま生かした(と記憶している。違ってたらごめんなさい)ダラボンは流石であると思う。主軸にアンディの脱獄の話を据えるとカタルシスこそ感じさせる話になるものの、同時にアンディが主人公として語られすぎてこの映画の旨味が消えてしまうと思うからだ。
ではこの映画の旨味とは何か。それは、この映画が実はひとりひとり一癖も二癖もある人格/キャラクターを備えていることから来る「群像劇」でありうるところだと思ったのだった。ここで話は脱線するのだが、かつて私はドストエフスキー『死の家の記録』を読んでいて「これはロシア版『ショーシャンクの空に』じゃないか」と思ってしまったのだった。いや、我ながら実にスットコドッコイな感想だとも思うのだがドストエフスキーの書いた作品とこの作品は「群像劇」として生々しい。アンディやレッド、ブルックスやトミー、所長に鬼主任。彼らがそんなに現実離れしたキャラではないものの、それでいてきちんと「立っている」ことに注目したい。
そのようにしてひとりひとり血の通った人物であることで、この映画は誰に感情移入しても楽しめうるものとなっているように思ったのだった。私のようにドストエフスキーを思い出しつつ観るのも勝手だし、さらにトンチンカンなことを言うならフランクル『夜と霧』を投影するのも面白いだろう。もっと言えば例えば安部公房『砂の女』や実存主義が照らし出す「自由の恐怖」「奴隷状態であることの幸せ」という概念を持ち込んでもいいわけだ……そう捉えていくとこの映画を今観ることはそうした思想への手引きとなるとも思う。いや、そんな観方は穿ち過ぎかもしれないけれど。
個人的な繰り言を書けば、私も20年ほど同じ会社で働き続けているのでこの映画が語る「現状を否定する希望を持つことの恐怖」はわかる気がするのだった。私の場合は身体が仕事に馴染んでしまっているので、やる気がなくとも職場に行くと身体が動く。そのような、身体感覚を(例えばレッドが実は小便をする時でも許可を得なければ気が済まなかったり、あるいは約束のブツを見つけた際に見張られている時の癖が抜けなくてキョロキョロしたりする、というように)描写しているところもこの映画にリアリティをもたらしている、とも思った。なかなか侮れないな、と……。
この映画、実は初めての鑑賞のきっかけは町山智浩が『ロッキー』『アニー・ホール』と併せて薦めていたので観たのだった。だが、なかなか泣けず困ったのを思い出す。単に期待値が高すぎたのか、それとも結局シネフィルを唸らせるようなショットの美しさがさほど感じられず(エンディングの「再会」の場面は確かに凄まじくいいのだが)律儀にストーリーが進行していくその機能性に辟易したのか、それはわからない。でもこうして観直してみて、実を言うと今回はアンディが問わず語りで彼の夢/希望をレッド相手に語り始めた場面ですでに泣いてしまった。その意味では実は人生経験によって「泣き」「感動」のツボが変わってきたり深まったりする作品なのかなとも思う。いや、どんな映画もそうだろ、と言われれば「そんな希望のないこと言いなさんな」と答えるしかなくなるのだけれど。