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2022/12/11 BGM: The Smiths "Bigmouth Strikes Again"

昨日は寝る前にずいぶん久しぶりにTwitterをしてしまった。後悔しているわけではないが、反省はしている。Twitterをこれからどう使うか考えたのだけれど、読書メモを公開できないかと思うようになった。自分の読書について、実況中継的に何を考えながら読んでいるか書いていく。他人と議論をすることや、自分の意見をラフな形で世界に提示することに前ほどには情熱が持てなくなった。雑にジャンルを跨いで何かを論じることは一種知的な冒険を冒すようで気持ちがいいが、それに慣れると暴論を開陳して悦に入るようでみっともないとも思うようになった。

この日記をどう書いているかなのだけれど、いつも私はマルマンから出ているメモパッドに英語でメモを書いている(日本語でメモを書いていた時期もあるのだけれど、どうしても長続きしなかった。試しに英語でメモを書くようにしたらストンと腑に落ちたようで続くようになったのだった)。そして、1日の始まりの朝に昨日起きたことをそのメモを読みながら振り返って、そして書き記しているのだった。日本語で書き終えてから、それを英語に訳していく。私の知り合いはフランスやインドネシアに住んでいて、英語しか読めない人もいるので英訳を始めたのだった。

青山真治『宝ヶ池の沈まぬ亀』を読み進める。日記というジャンルはなかなか味わい深い。ストーリーがあるわけではなく、ただ日々の出来事が五月雨式に続いていくだけだ。だが、そのデタラメとも言える日々の記録が読み進めるにつれて味わい深くなっていく。考えてみればジョン・アーヴィングを並行して読んでいるのもそうした、コンセプチュアルというか大掴みというか、頭でっかちに捉えられないデタラメな人生の実相が孕む偉大さ/深遠さを味わいたいからでもある。私の嗜好は今、そういう「世界のデタラメさ」を触れることに向いているようだ。

日記ということで言えば、アンディ・ウォーホルの日記を再読するのも面白いかもしれない。人から教わったスチュアート・マードックの日記はどうやら入手困難なようなのだけれど……自分は日記マニアというわけではないと思うが、それでもたくさんの日記を読んできたのだなと思った。私だってその読書の成果からこんな日記を(もう、初っ端に抱いた動機も忘れてしまったが)始めてしまったわけだ。考えてみれば私の大好きなフェルナンド・ペソア『不安の書』だって日記みたいなものだし、古井由吉やロラン・バルトだって日記のようなエッセイを書き残している……日記とはそうして考えていくと奥が深いもの、素晴らしいものなのかなとも思う。

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