2023/02/01 BGM: スピッツ - 渚
Discordの村上春樹ファンが集うサーバで、昨日書いた4月に村上春樹が刊行する新作のニュースについて話した。さっそく参加者の間でどんな話になるんだろうと話題になる。海外のファンが日本語のニュースを機械翻訳で英語に変えて読み、あれこれ議論を始める。次作について原稿用紙1200枚級のものになるという部分について「このサイトに載っている数字の1200ってどういう意味だ」と訊かれて、私も困ってしまった。海外には原稿用紙の枚数で小説の長さを類推する文化はないようなので、しどろもどろで「日本には草稿の枚数で小説の長さを推し量る風習があるんだ」と極めてテキトーなことを言ってしまった。何はともあれ、私自身も春樹の新作を待ち望む心理には変わりはないのだった。
今日は休みだった。図書館に行き、ジョージ・オーウェルの本を数冊と村上春樹『村上さんのところ』を借りる。朝はいつも調子が出ない。今日は天気も悪く何だか鬱っぽい気分になってきたので「無理はよくない」と思い、ピーター・ガブリエルなどを聴きながらその『村上さんのところ』を読んで過ごす。この本は村上春樹が全国、いや海外も含めた全世界津々浦々から届いたメールに対して返事を書くというコンセプトで成り立っているものなのだけれど、春樹の返事は肩に力が入っておらずリラックスしたものでそれが独自の「まったり」した、気軽なおしゃべりの延長線上にある空気を生み出している。たまにはこんな本を読んで気分をリフレッシュさせるのもいいものだ、と思った。
春樹は、とある読者の「私は自分のことが好きではありません」というメールに対して「ほかのことについてどう考えるかという、姿勢や考え方の中に『あなた』はいます」と記している。これは深い、と唸った(この問答自体が、夏目漱石の随筆が教える漱石と読者が対峙する光景のようにも思われる)。私も自分とは何だろうと結局深く見つめてもわけがわからなくなるだけで、それよりこんな日にコーヒーでも呑みながらキセルなんかを聞いてまったりする、その心地よさを体感することの中に自分というのはいるのかなあ、とも思ったのだった。この考え方を突き詰めていけば、昔宮台真司が話した「意味から強度へ」という考え方に至るのかなとも思ったのだった。ベタに「どうして?」と意味を問うのではなく、「(意味なんてなくても)楽しい!」と居直ることだと。
夜、断酒会に行く。そこでいつものように体験談を話す。前に記した新しい方も参加されて、私も英会話を学び始めたことなどを話す。大学では英文学を学んだのだけれど、20代の頃は学問を侮っていたので真面目に学んだとは言い難い。その後仕事を始めたけれどその仕事も舐めていて、人生において「種蒔き」をするべき時期をただ酒に費やして生きてきたことを思い出す。人生終わった、時代が悪かった、自分は何かに負けた……と敗北感ばかりを募らせて。確かに私は平社員だし貧乏だし、この歳になっても恋人もおらず典型的な負け犬なのだろう。だが、私は少なくとも自分自身には負けていないと自負している。新しい断酒会参加者の方はおそらく腹を括って本格的に回復していく道を歩むことを選んだのだろう。私もその方からこそ学べることはあるはずだ、と嬉しく思った。
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