Wさんの主題によるカレーのこと
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Wさんのことを書く。
と、一行書いておいてなんだが、この書き出しは二重の模倣である。織田作之助は武田麟太郎の追悼エッセー「四月馬鹿」でこう書いている。「武田さんのことを書く。 ーーというこの書出しは、実は武田さんの真似である」。そしてその真似の元である武田麟太郎の戦時中の小説「弥生さん」はこんな風にはじまる。「弥生さんのことを書く」。
なんとなく、この感じを真似してみたかった。そういう気分もあるにはあるのだが、Wさんについて書こうとすれば、どこかでこんな無頼派気取った書き方が正しいような気もしてくる。律儀にも感じられる。Wさんについて書く。そう言った直後にあれだが、Wさんについて、以下わたしは、あんまり書かない。心情の正しさと社会通念の正しさ、後者については残念ながら年をとってもあんまり理解が進まないのだが、こう並べてみてもやはりわたしはWさんについて詳しく書くべきではない。武田麟太郎の弥生さんは、いちおうはフィクションだ。私小説らしく書かれたこの好ましい小品がどこまで本当なのかとか、そういったことにわたしはあまり興味がない。いずれにせよ小説の形を、この人らしい話術のおかげもあるのかもしれない、うまくまとっている。で織田作之助の武田さんは、それよりもさらに小説じみている。エッセーで、さらには追悼のエッセーとくれば、ささやかな交友録で終わるのが通常だが、まったくそんな素振りがない、本気の散文である。わたしが「六白金星」や「世論」といった彼の代表作を愛する一方、この作品も折りをみては読み返すのはその迫力のせいだろう。で、この二作の共通点として、書かれた人物は故人である。だがこれから書こうとしたWさんは生きている。それにわたしが割とよく会う人だ。だからこの書き方はやっぱりなんだかよくない。でもこう書きたい。Wさんについて、個人的なことについてあれこれ語れないが、こういう書き方なら許されるだろう。
Wさんのカレーのことを書く。
......と、カレーについて書く、いきなり書くべきなんだろうと思う。でもやはり、いきなりでてくるWさんという人物、こんなにもったいぶった語りででてくる人物について、やはり若干は触れておくのが筋であろう。筋を果たせば、なんだ、結局個人的な交遊じゃないかと思うと思う。でもそれはもうそれである。だから堂々巡りになるがこう言ってしまおう。Wさんいついて書かないが、Wさんのカレーについて書くので、そのために書けないながらもWさんについて書く。......なんなんだ、これは。
Wさんと知り合ったのは、ある居酒屋である。居酒屋というとちょっと語弊がある。飲み屋と書いた方がよさそうだ。別に気取っているのではない。この店、昼間は立ち食いの蕎麦屋である。昨今は「立ち食い」といいながら、本当に立って食べることを客に求める店は減ってきている。「スタンド蕎麦」なんていうよくわからない名称も聞く。その点でいえば、ここは真の立ち食い蕎麦屋である。椅子は「スタンド」らしい止まり木めいたものもない(だいたいスタンドの椅子ってなんなんだ)。時折大将がふざけて、腰痛の人用とうそぶけビール瓶のケースを常連向けに用意するが、そこに座る人はいない。昼前はまっとうな蕎麦屋だが、夕暮れあたりから蕎麦屋兼飲み屋となる。酒もハイボールとかサワーといったふざけたものはおいていない。ビールか日本酒しかない。こういう店で日本酒を日本酒と呼ぶのはたぶん礼に反する。酒、と一言いうべきだろう。
...というのは以前入っていた短歌結社の人の口癖で、なぜ日本で「酒」と頼んで、日本酒以外のものがでてくるのか、酒と頼んだらそこの店員が、ビール、焼酎、日本酒、ワインいろいろありますよ、なんて言うんだよ、そりゃあおかしいだろう、馬鹿野郎、日本で酒といったらポン酒だろうということば、わたしは好きだったが、支持はされないのだろう、あとわたしはまだ三十代なので、さすがにお店に入るなり「酒」なんて言えるような柄じゃない。
このお店には以前からちょくちょくは行っていた。忘れた頃に行っていた、というくらいだろうか。もともとどうして訪れたのかはわからない。基本的には常連さんがほとんどの店なのである。入りづらい。そこに、きっと当時はまだ院生とはいえ、世間のことなんてろくろく、今以上にわかっていない学生である、入れないが、わからないからこそ入れたのかもしれない。で、気に入りはしたのだろう、時折友人と行っていた。それがコロナ禍、人と会えない、というか人と飲む約束をすることがためらわれる状況で、一人で行きはじめた。
昨年の晩秋だったと思う。仕事を終えてここに来て、メニューをざっと見て芋煮を頼んだ。関東では珍しいと思ったのと、いつか食べてみたいと思っていた品である。実際に参戦するかしないかは別にして、東北人がその材料で激論を交わすソウルフードなんて、やっぱり食べてみたい。しかもそこに余所者として、無責任で楽しめるなんて最高じゃないか。そう思って日本酒を、いや、「酒」を飲んでいた。するとだんだんに常連さんが入ってくる。わたしが、つまりは普段見ない人が食べているものを見て、「それ、なんですか」と聞いてくる。わたしはこういう一期一会の会話は嫌いじゃない、というかむしろ好きな方なので応える。へえ、芋煮ねえ、と芋煮を頼む人が増えてくる。それがきっかけで話し始める。なんだかんだで自己紹介する。
コロナ禍以前だとこういうことがあると、そのときはにこにこしているものの、次はしばらく時間をおいて訪ねるようにしていた。相手が忘れるころまでは行かない。そう決めていた。初対面の人との話は非常に楽なのだが、それからが難しい。それが典型的な「コミュ障」のしぐさだと知ったのは最近である。まあそれもネットで得た情報なので、どこまで本気にすればよいのかはわからない。ネットをただよう情報なんて、基本的にろくに信じる価値のあるものなんてほとんどない。情報弱者、なんていう言い方もそもそもどうかと思うが、それを更に「情弱」とあられもなく略し、そこに自らが分類されることだけは滑稽なほどの決意を持って忌避し、その怯えから圧倒的な量の情報にさらされている、愚かと言ってしまえば気の毒なので、もういっそ「気の毒なひとたち」と呼んでおくが、そういう連中のほとんど原生生物の触覚機能のような感覚器官に反応を与えるものを投げ込むなんて、考えただけで笑ってしまうほどにたやすいだろう。信用しちゃいけない。まあそれは別としても、コミュ障云々のそれが本当だとして、それを信じてその先になにがあるのか。なにもない。ああ、コミュ障なのか、ほかにそんな人はいないかと傷をなめ合うだけだったら、それこそコミュニケーションだけはとりたい傲慢な人間の態度以外なにものでもない。勝手にやっていればよい。わたしはそうはしたくないので、そしてコロナ禍で人と話すことも(文字通りの「話す」である)本当に少なくなっていたので、その次の週も訪ねた。Wさんとはそんな具合にして知り合った。いつ最初に話したのか、なにを最初に話したのか、そのあたりのことはもう覚えていない。
Wさんとは色々な話をかわした。どのときも、静かながら盛り上がった。もともとわたしは太鼓持ちみたいな、といえば大げさだが、基本相手をよろこばせる話し方をする癖がある。相手がどんなことばを求めるかを感じると、自分がどう思うかなど関係なく、さらっとそれを投げている。その場はだから円滑だが、帰ってからなんだか疲れる。人間関係をおかしくしているのはあきらかにわたしで、それこそ本当に「コミュ障」なのだが、そこで傷をなめあうようなら......というこのくだりは先にかいたのでもう繰り返さない。Wさんとも最初はある程度、そんな話し方をしていたんじゃないかと思う。なにしろ、わたしの基本的な仕様なのだから、そうそう変わらない。ところが途中からかわりはじめていたようである。ようである、というのはわたしはあまり意識していなかったのだが、いつも一二杯飲んでさっと帰るWさんが去った後、まだ残っている酒をゆっくりあおるわたしに、なんの話をしていたのと問う人が多く、ずいぶん盛り上がっているから邪魔しちゃいけないと思ったよなんて言われ始めたあたりでやっと気づいたのだ。ああ、これはいわゆる社会人の話し方ではないらしい。たしかによくよく聞いていると、話題への没入感、言葉の選び方、トーンはわたしがWさんと話すときと、そうでないときでは割と異なっていた。もちろん優劣とかそういうことじゃない。ただ単に、なんか違うのである。
Wさんはわたしがいま教えに行っている大学の出身者だった。そこで当時は来たばかりの、高名な批評家の授業を受けている。彼は卒業後もつながりがあり、その批評家の読書会を書籍化したものにも出ているらしい。亡くなる少し前にも連絡をしていたという。わたしはその批評家の著作をいくつかは読んでいたので、興味深く当時の彼の授業を聴いた。80年代の空気感を聴くのが好きだったのかもしれない。Wさんから聞いた当時の話のあちこちに、たぶん当人は意図せずに話しているが、みなぎっている80年代の感覚に耳をすませた。思い出話ばかりしていたわけじゃない。街の話、鳥の話、公園やそこの季節の風景、ウクライナのこと、ドイツ映画のこと、ベルギービールのこと、世界料理のこと、文化を理解する最もアルカイックな第一歩とはなにか、太宰治と同年に生まれている作家のこと、いま思いつくだけでも色々とある。で、こういった話をするときのわたしたちは、仕事を終えて、仕事場と家庭の中間地点として身を落ち着ける人の話し方とはやや異なった話しぶりをしているらしいのだが、もうそれは、なんとなく、上記のテーマでもうかがえるのではないかと思う。簡単に言えば、サークルの部室で話すような感覚だった。わたしとWさんの歳は二十くらいは離れているにもかかわらず、である。Wさんがカレーの話をしたのもやはりこんな、熱っぽい話の中だった。
Wさんは言う。カレーっていうのは、クミンさえあればできるんだよ。別にそれまでカレーの話をしていたわけでもなかったと思う。ましてやわたしが、文学とカレーを融合させるなんていうことをちまちまやっているなんて話したわけでもなかった。カレーに使うスパイスは、しばしば4つが必要と言われる。ターメリック、コリアンダー、レッドペッパー、クミンである。とりあえずこれさえあればカレーになるし、なんだったらターメリックは除いても、まあそれっぽくなることもある。辛味を下げるならレッドペッパーはなくてもよいかもしれない。しかしコリアンダーは必要だろう。そう思っていた。なのでそれを問うと、いや、なくていいんだという。
Wさんは以前、あるおでんやさんで働いていたこともあるという。当時夏のランチメニューでおでんがあまりでない。なので夏向けのメニューを考えてくれないかと言われ、カレーを作ったのだという。おでんの出汁を入れたのかと聞くと、いれないという。むしろ一切余計なものはいれないんだ、シンプルに作るんだ、インドの普通の人が作るような感じでね。そう言う彼の教えたくれた作り方は、本当に驚くほどシンプルだった。
油を熱して、クミンシードを大さじ1入れる。
そこにたまねぎのみじん切りを投入する。
トマトを投入する
好みに応じて、少し辛味となるスパイスを入れる。
だから厳密に言えばクミンだけではないのだが、実質ほぼクミンのみである。で、ここにあらかじめマリネしておいたナスやパプリカといった夏野菜をトッピングする。これで終りだ。肉も入れない。これじゃあカレーの味にはならないだろうと思った。試しに作ってみた。
なった。見事にカレーで、しかもいままでわたしがあれこれ入れて作ってきたものよりもはるかに潔い、すぱっとしたカレーなのである。端的にカレー。飾りはない。そこに美学をみるようなカレーだ。なんとなくそれが、Wさんの話し振りにも通ずるものを感じた、といえば大げさかもしれないが、うん、やはり大げさだ。こういうまとめかたはよくない。なのでもうちょっと詳しく書いてみよう。Wさんについてではない、作り方の方だ。えーっと、しかし問題なのは、分量がよくわからないのだ。なんだか適当にやってくれ、としか言いようのない感じである。
一度、わたしはWさんに自分の作ったカレーの写真を見せた。ああ、ずいぶんきれいにつくってるじゃないの。彼はそう言ってから、足したものを言うわたしにこうシビアにいった。だめだね、そんな余計なもんいれちゃ。でもそう言い足してちょっと考え直したのか、いや、余計なもんっていっちゃ失礼だけども、一度ぜひ、まったくシンプルなものでやってもらいたいね。なるほどやってみよう。やってみようと思うのだが、今回はそうじゃない方を、Wさん、ここで勝手に紹介します。こんな感じで作りました。
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たまねぎ 大1
トマト 大1
にんにく 1かけ
しょうが 1かけ
クミン 大さじ1
カイエンペッパー 適宜
酒 1カップ(三種類くらい入れるのが望ましい)
たまねぎをみじんぎりにする。しょうが、にんにくもみじん。トマトも細かく。
オリーブオイルをしいて弱火(分量外)。クミンを入れてふつふつしてきたら、にんにく、しょうがを。その後香りがたってきたらたまねぎを入れる。やわらかい褐色を呈してきたらトマトを投入する。
ペースト状になってきたら酒を加える。ここはWさんという酒飲みに合わせて、わたしはさまざまな種類を適当に入れるようにしている。1カップと書いているが、正直どうでもよい。無水カレーだったらなんだっていいのである。っていうか、レシピなんて守る必要があるんだろうか?あなたはこれを読みながら思わないか?どうでもよい、他人が勝手にこうつくると旨いとかなんとか、そんなことを得意げにかいている短い文に対して、なんというかいいようのない苛立を覚えはしないのか?覚えているのならばこの先も読んでほしいのだが、なんだこの矛盾、そういうあなたはこれより先は読まないだろう、そしてわたしはそういう人じゃないてめえらに向って、いやちがう、あなたさまにむかって以下を書くのであるが、もうかってにやれ。つまりなんでもよい。酒が入っていればよい。梅酒とか焼酎とか料理用のお酒とか。料理用のお酒は、これに限ったことじゃないけど、料理酒なんていうふざけたものはつかわず、安い紙パックのお酒を使った方がよいという。たしかにそう思う。で、ふつふつやってゆく。ええっと長々誰に対してかわからないたんかをきった。てめえはレシピをちゃんと書く気があるのか?あるわけないだろ、馬鹿野郎!ツイッターなんかでわいている、あの生活をちょっと豊かに演出するような、「ていねいな暮し」は即刻滅びるべきだし、滅びないのならばわたしは多少の暴力も厭わずに、がんばって改造銃を作り、それで至近距離で首やらなんやら撃ち抜こうかと......いや、そこまではまあ、さすがに思っていないのだが、もうなんとなくわかってくれ。で、ときどき味見しながら、ちょっと水分少なそうならば酒を加えてゆく。個人的にはここで梅酒があるとよいと思っている。
これで3が好きな味になったらそこで止めてそれで終りにしてよい。でもここでちょっと言い足すと、終りにしたら少しだけガラムマサラを足して、ウィスキーをひとたらし香りづけに。で、トッピングの野菜を入れる。
トッピングの野菜についてまったく書いていなかったので、書いておく。これはもうWさんとはほとんど関係ない。わたしのバージョンである。合作ってことで、いいだろうか。
好きな野菜(なす、ピーマン、おくらあたりがよいかも。かぼちゃもいけるかな)をじっくりとフライパンで焼く。焼き方は勝手にしてくれ。
マリネ液を作る。マリネ液は酢、砂糖、ナンプラーでいけるけど、その配合はこちらも勝手にやってほしい。作る量によって全然変わるので、なんとなくつかるなー、っていう量でやってくれればよい。大丈夫、そんなに失敗しないよ。酢はわたしは基本はりんご酢でやっているが、ちょっと黒酢やバルサミコ酢なんかもまぜてゆくといい感じ。
一晩くらい2につけた野菜たちをトッピングする。
Wさんいわく、このカレーは作りたての熱いときでも美味しいけれども、その後、冷えても美味しいとのこと。後者はやったことがまだないが、作り方そのものはわたしなりに色々試してみた。先に書いたように、Wさんは酒とか色々いれるなとのことだが、わたしのなかでこれは無水シンプルカレーではなく、なによりも「Wさんカレー」なのである。だからWさんの感じを出したい。となると、ただ無水カレーを作るんじゃなくて、彼のお酒への情熱を出したい。でもこれについては、冒頭に書いたように、Wさんのことを書けないというあれである。
ここまでよんでくれたあなたがどのような人かはわからない。わからないけれども、ここまで読んでくれたよしみで、というのも変な言い方だが、作ってみてくれればと思う。レシピがシンプルなのは、つまりは自由にできるからだ。手順さえ、これも簡単なものだが、守って行えば、あとは自分の好きな味でつくってしまえばよい。食べるのはあなたなのだから、誰に遠慮するのでもなく、あなた好みの味であなたが食べればよい。それがWさんのカレーでなくても、そんなことはもう、そのカレーがおいしくあなたの胃の腑に落ちていれば、心底どうでもよいことなのである。