飲んで酔うスパイスカレー、佐藤正午の失踪者の主題によるカレーについて知ることのすべて

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☆レシピは後半にあります。

佐藤正午の小説で最初に読んだのは『ジャンプ』だった。少し離れた仕事先に向かう電車の中で読み始め、休憩時間も読み、帰りの電車でも夢中でページをめくった。語りのうまさにやられた。情報量の多さ、おびただしい固有名詞、それがしかしこの埋めようのない欠落を抱える作品世界の描写にはどうしても必要だ。饒舌なようでいて、ものすごく抑制が効いている。語るスピードに絶妙な加減があって、もっと聞かせてくれと、読者は前のめりで耳を傾ける。これ以上遅くても速くても崩れてしまう、そんなぎりぎりのラインをストイックなまでに保ちつつ語られてゆく。佐藤正午作品を『ジャンプ』に触れてから、いろいろ読んだ。「いろいろ」というのは、すべてとは到底いえないし、「読み漁った」というような読み方でもないからだ。むしろその逆で、この作家の作品を手にとることに、わたしは過度なほどに慎重になる。理由はただ、のめりこみすぎるからだ。『ジャンプ』を読んだとき、その翌日も仕事だというのにやめられず、明け方までかけて読み終えた。いや『ジャンプ』に限らず、この人の作品だとたいていそうなる。だから『鳩の撃退法』のような上下巻の本を読んだらどうなるのか、恐ろしくてならない。ステイホームにはよさそうだし、買ってはあるので、そろそろ読もうか。そんな接し方のわたしがいちばん好きな作品は『身の上話』だ。先に触れた饒舌体がもっとも戦略的に成功している。読者として、とにかく翻弄される。それがなんとも心地よい。ある程度読み進めるまで、そもそも語り手が誰なのかすらわからないのもよい。『身の上話』も他の多くの作品と同様、広義のミステリーに分類されると思う。しかしわたしは、これはホラーだと思っている。佐藤正午の中で、最もぞっとする。語りが饒舌でありながら抑制が効いているせいで、余計に怖ろしい。
『身の上話』の主人公は、宝くじの当たり券を持って、ふらっと行方をくらます。物語というか事件はここから動いてゆく。唐突といえば唐突である。しかし佐藤正午の作品にすでに触れた読者ならば、この時点で期待してしまうのではないか。この作家は好んで失踪者を描く。そして『ジャンプ』もまた失踪者の話である。とはいえこちらは、主人公が失踪者ではない。主人公の恋人が、失踪する。ある日、主人公の住む蒲田のアパートから、りんごを買いに行き、そのまま行方がわからなくなる。物語はここから、うご……いや、動くのだろうか。実は動いていないのではないか。動いていないままの年月が、饒舌に語られているのではないか。欠落が、語られるほどにこぼれおちる欠落が。衝撃的な出来事によって得た傷は、追憶によって克服される。だからトラウマは再生産を余儀なくされる。ところがここでは、そのたびに傷は広がってゆくようだ。
恋人が失踪した前夜、男は彼女と共に訪れた横浜のバーで酔いつぶれている。そこでとんでもなく強いカクテルを飲んでいたと、後に知る。アブジンスキーという、アブサン、ジン、ウィスキーを混ぜたカクテルを、わたしは読み終えて検索するまで、実際には存在しないと思っていた。それが本当にあると知ったときの驚きは、小説が作品としての世界にとどまらず、現実に浸食してくる衝撃でもあった。いや、そもそもわたしはこの小説の地平にはなはだ近いところで暮らしている。というのもこの主人公の住む蒲田という街、わたしの住むところからかなり近いのだ。そのせいだろうか、まだ蒲田という地名が出る前から、街の描写を読みながら、なんだか蒲田みたいな街だと思っていた。本当に蒲田だとわかったとき、少しぞっとした。小説が、なだれ込んできている。読んでいるわたしが、小説に読まれている。
事実は小説より奇なり、ということばに間違いはない。しかしその事実が事実だけで屹立しているかは、わからない。わたしたちの日常は唐突に小説の中に迷い込んでしまってもおかしくない。それはわたしが『ジャンプ』を読んで体験したことでもあるし、その『ジャンプ』の作品世界の「中の人」つまりは主人公が体験した「朝、恋人がりんごを買いに行ったまま失踪した」ということでもある。
前置きが非常に長くなった。そんな現実と虚構の境目が見事に融解してゆくようなカレーをわたしはつくりたかったのだ。そしてその融解感覚と失踪者は、実に相性がよい。この長い前置きを書きながら、そう気づき始めている。彼らはその境目を越えて、しかし逃げても逃げても現実の中に閉じ込められている人たちなのだろう。それはつまり、融解がとうの昔に完了したという、かなしい証左でもある。

ということで、カレーのタイトルは「佐藤正午の失踪者の主題によるキーマカレー」とした。イメージは『ジャンプ』なので、りんごを使いたい。あとアブジンスキーのイメージでアルコールも。いや、いっそのこと、酒でちゃぷちゃぷしたカレーでもいいんじゃないか?もっともそんなのはライスと合わない、カレーライスになりえない、とは思った。だが、それでなにが困るだろうか? カレーは常にカレーライスでなければいけないなんてことはない。カレーがライスから失踪したと考えれば、何もおかしくない。ということでこのカレーは、そのまま食べるカレーにしよう。いや、現実からの失踪なのだ、食べるという行為からも失踪する。つまりアルコールをいれまくって、飛ばさない。つまり、飲むカレーであり、飲んだら酔うカレーだ。失踪者という性質を考えて、材料はみじん切りにして見えなくする。肉もひき肉を使う。酒の味と合わせるべく、甘みを出したい。りんごも使うしちょうどよい。スタータースパイスでシナモン、クローブ、カルダモンの黄金トリオで甘みを出そう。パウダーでもクローブを使い、カルダモンでちょっと甘さの方向を散らす。ということで、まとめてみる。


☆材料
・玉ねぎ 1個
・にんじん 1本
・セロリ (茎の部分)1本
・りんご 1/2個
・にんにく、しょうが 各1かけ
・ひき肉 300g
・トマトピューレ 大さじ2
・アルコール数種類 (後述)

A.スタータースパイス
・シナモンスティック 1本
・クミン 小さじ1
・クローブ 8粒
・カルダモン 5粒
・レッドペッパー 1本

B.パウダースパイス(以下、すべて単位は小さじ)
・クミン 1
・コリアンダー 2
・ターメリック 1/3
・レッドペッパー 1/2
・カルダモン 1
・クローブ 1
・シナモン 1
・ブラックペッパー 1

1.玉ねぎとセロリはみじん切り。にんじん、しょうが、にんにく、りんごはすりおろす。りんごは少しだけ、形を残して(画像参照)取っておく。最後にトッピングに使います。
2.鍋にギーを入れて(なければバターでも可)、Aのスパイスを入れてゆく。泡立って香りが立ってきたら、玉ねぎを入れて強火にする。差し水を適宜50~100mlほどしつつ、焦げ茶色を越えるあたりまで炒めてゆく。
3.セロリを加え、透き通ってきたら、すりおろしたものたちを流し入れ、更にトマトピューレを。多少火力を弱めて、水気を飛ばしてゆく。
4.火を止めて、Bのパウダースパイスを入れる。余熱で混ぜ合わせてからひき肉を入れて、強めの弱火。色が変わってきたら、まずは酒かワインを200mlを入れて中火。沸騰したら、別の種類の酒を最低2種類、大さじ2ずつ入れて弱火。上にも書いたように、このカレーのコンセプトは、食べるカレーではなく「飲むカレー」、「飲んで、酔えるカレー」。なのでここは躊躇せずに、なるべく強めのを入れてゆく。わたしはウオッカ、ジン、ウイスキー、赤ワインあたりを入れます。
5.アルコールが飛び始めたら味見して、塩で整えてゆく。入れるお酒によって味の印象は結構変わると思うので、ここからはフィーリング。トマト感が欲しければケチャップを入れて。醤油や味噌を大さじ1以下で入れるのも◎。アルコールがもっと欲しければ、ここで入れて様子を見る。
6.アルコールが好みの濃さになったら火を止めて、ラム酒などの香りの強いものを大さじ1以上入れて、ぐるっと混ぜる。器にカレーだけをよそい、1のりんごの残りを載せて完成。

このレシピは最初、昨年2020年の2月頃、冗談半分で作った。味見するとアルコールが強烈で、カレーなのかなんなのかわからなくて、思わず笑ってしまったのを覚えている。その後封印していたが、ちょっと配合を変えて作ってみた。今回ので、ライスには合わないけど、そのまま食べる(飲む)、あるいはバケットと一緒に食べる分にはよくなったと思う。
試食しているうちに、映像が浮かんでくる。薄暗いバーで、わたしはカウンターの内側にいる。若い男がスーツ姿で入ってきて、カウンターの止まり木に腰掛ける。終電はそろそろなくなる時間だ。マスター、仕事の付き合いで飲んでしめのラーメンなんて食べてるんだけど、飲み足りない気分でね、で、そんな胃の状態でも食べられるものってなんかない?男はそう一気に話す。状況を全部説明する感じ、嫌いじゃない。わたしは、あるよ、とうなずき、このカレーを、数枚の薄く切って、ガーリックとバターを塗り軽く焼いたバケットとともに出す。え、カレーだけ?おれ、ハイボール頼んだんだけど?まずは一口やってみな。え、これカレー味の酒?わたしは無言で、ハイボールを置く。やがて男は帰る。彼は隣街、隣の駅まで歩くという。カレーと酒で、だいぶ心もとない足取りで、タクシーでも乗ったらどうだといったが、大丈夫だと聞かない。彼が去ってから客も来る気配もないし、店をしめて、わたしは外へ出る。大森駅も池上通りに出れば、こんな夜中でも開けている店がある。彼もこの道を線路沿いに歩いて、隣の蒲田まで向かっただろう。カレーはバケットをおかわりまでして平らげた彼が、りんごには半分しか手を付けなかったのをわたしは急に思い出す。

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画像は二日目の失踪カレー。アルコールは飛んでスパイシーな甘口になっている。こうなれば米とも合う。じゃがいもとほうれん草の即席カレーとのあいがけで。

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