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パティシエだけが発見する失われた海

今日は母に頼まれ、急遽焼くことになったガトー・ショコラ、そしてスフレタイプのフォンダン・ショコラ、テリーヌ・ショコラを焼きました☺️

「明日渡すから今日中に」って言われていたけれど、母が具合悪く熱もあるので明日渡すことになり、カフェでコーヒーを飲みながらひと休み…←イマココ



スイーツは、生地、ガルニチュール、クリーム、トッピング…紳士服のように様式美があって。これはジャケット、これはネクタイ、シャツ、ベスト…みたいに。

その中でも生地は、これがなければスイーツが成立しない、スイーツをスイーツとして形作ってくれるもの。

パテシィエとは、パート(生地)の職人という意味なのだそうです。

ガトー・ショコラは、加える粉はわずかですが、ガルニチュールやクリームを加えず生地のみのようなスイーツで、食べるときにクレーム・シャンティをそえるぐらい…

そのクレームだって、生地を美味しく食べてもらうために、生地を印象づけるために、名脇役になってくれるもの。あくまで存在の中心は生地。
  
だから、美味しい生地がつくりたくて、タルトでも生菓子でも、フルーツやクリームより生地が多いところが食べたくなるようなスイーツをつくりたくて、練習しています。




パティシエの方たちの言葉を読んでいました。

複雑なことは言っていなくて、すごく素朴であたり前に感じる言葉で、皆さんがどんな思いで、どんなスイーツを作りたいか、そのために愚直にただ試行錯誤し、自問している姿を感じるのです。

日本人の好みにあわせるのもひとつの選択ですが、フランス風ではなく、日本人の自分が日本の現代でフランス菓子をつくるとき、時代の移り変わりに負けず受け継がれた伝統的な菓子を、外国の文化を引き受けるのだという覚悟と謙虚さで、真摯に向き合い続けているように思うのです。




大切な友は、フランスで長く和食料理店を開いてきました。  以前、わたしはこのようなことを伝えました。

日本の伝統的な料理には、日本人の精神性が宿っている。人と人はぶつかり合うけれど、食を通してフランスの人たちに日本人の意識と溶け合うことを、長年あなたはしてきたのだ、と…


境界を溶かし、偏見や恐れを超えて、料理やスイーツが、溶け合う力になっているのなら…

そうなら、いいのにとわたしは願うのです。そしてそれを可能にしている誠実なパティシエの方たちの素晴らしさに、想いで生きている方の美しさに、言葉を読んでいてなんだか涙が出てきてしまいました。




わたしは思うのです…

自身のすべてを賭けて航海に出たパティシエだけが発見する、失われた海があるのだと。

その海の一滴が、つくるスイーツに含まれているから、わたしたちは酔えるのだと…


たった一滴?と思うかもしれないけれど、あまりに純真爛漫にスイーツに賭けたパティシエの、その中心の熱さは…例えたら太陽のようなもの。

太陽は、地球から適度に距離があり、オゾン層とかあるから、生命を育みます。だけど、少しでも熱さに近づきすぎたら、それは命を燃やす毒なのです。


試行錯誤し、出来上がるまでにはたくさんの工程を踏み、盛れるエッセンスはたった一滴だったとしても、その距離があることで程よくわたしたちを酔わせてくれます。



ガトー・スフレ・オ・ショコラ…

最初は、まったく綺麗にできなくて、またつくってみたのです。最初よりよかったけれど…写真のように綺麗じゃなくて、今スフレに悪戦苦闘…

古典菓子に惹かれたパティシエの方に
、わたしが惹かれるのは、長い時間の中で淘汰されずに息づいてきたものを大切にしているというところ…

わたしは撮影の仕事をしていたのですが、古い映画をよく見ました。時間の芸術である映画で、時間の流れに耐える力のある作品に惹かれたのです。

しかし、スイーツづくりは知らないことばかりの世界。経験・知識・技術、なにもありません…



ですが、そのスイーツを生み出した国、愛してきた人たち、レシピを教えてくれる方たちに…未熟でも、今できることをすることが敬意を払うことかなと、思って、練習をします。

失敗したら、自分で食べらる。火が入っていれば食べれるもの。

最近は、夕飯はスイーツです…笑



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