愛のムチ(ショートショート#23)【2200字】
「奥さん、いいですか。私に言わせれば、今の世の中は若者に甘すぎる。引きこもりやニートは甘えです。体罰は時代遅れだと言う人もいるが、そうは思わない。体罰は暴力じゃありません。愛のムチなんです」
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閑静な住宅街に、典子が住む一軒家がある。5年前から部屋を出てこない息子と二人きりで暮らす典子は、今日、とある人物と会う約束をしていた。
インターホンが鳴る。モニターには真っ黒に日焼けした白髪の初老の男が映っていた。玄関のドアを開ける。輝くような白い歯を見せて、男は笑った。
「はじめまして。戸沼ヨット・スクールの会長、戸沼隆です。息子さんの件でうかがいました」
典子はぎこちない笑みでもてなした。長年の疲れが顔に刻まれているような表情だ。
戸沼は、きちんと片付けられた応接室に通された。
ソファにどかっと座ると、戸沼が開口一番、
「奥さん。安心してください。私が来たからには、息子さんを必ず引きこもりから更生させてみせます」
そして、名刺を差し出した。
白いポロシャツを着て、ヨットを背に、ニカッと笑う戸沼の写真。
戸沼ヨット・スクール会長・戸沼隆。引きこもりや不登校の若者を、厳しい鍛錬で何人も更生させてきたという有名なスクールである。
「さっそく本題に入りましょう。息子さん、大和田拓也君は、いつから引きこもりに?」
「5年前からです」
「ほお、では今はおいくつで?」
「20歳になります。中学生のとき、学校で何かあったらしくて。不登校になって、それからずっと」
戸沼は腕を組み、深くため息をつく。そして、眉根をおさえた。
「……さぞ、ご苦労されたでしょう。そんな日々も今日で終わりにましょう、奥さん」
泣いているようだ。典子は困惑する。
「そのほかにキッカケはなかったのですか?」
もちろん思い当たる節はあった。
「私たち夫婦は共働きでして。子供の世話をする教育用アンドロイドってあるでしょう? 昔からそれに頼りきりで、拓也にはかまってあげられませんでした。そのせいか、いつもアンドロイドとばかり会話するようになってしまって……」
「なるほど。ウチの生徒にもアンドロイド依存症の若者はたくさんいますよ。もちろん、みんな立派に社会復帰してますがね」
その言葉を聞いて、典子はホッとする。
「旦那さんはお仕事ですか?」
また典子の表情に陰が落ちた。
「夫とは去年別れました。息子の件で大喧嘩になって」
「それはそれは……。失礼ですが、奥さんもずいぶんと調子が悪そうに見えますが、大丈夫ですか?」
「ええ。実は最近、精神の不調が多くて。物忘れが激しかったり、人の名前が思い出せなかったり、ちょっとおかしいんです。仕事もしばらく休んでます」
「それはいけない。さっそく拓也君の部屋に案内してください。今日にもウチのスクールに連れていきますよ」
「そんな、今からですか?」
「奥さん、いいですか。私に言わせれば、今の世の中は若者に甘すぎる。引きこもりやニートは甘えです。体罰は時代遅れだと言う人もいるが、そうは思わない。体罰は暴力じゃありません。愛のムチなんです」
戸沼の目は真剣そのものだ。典子はゾッとする。
***
2階の拓也の部屋の前に、二人は立っている。
「拓也くん。私は戸沼ヨット・スクールの会長だ。話があるから、入れなさい」
戸沼は返事を待たず、扉を開け放った。
驚いた。床にはゴミ一つ落ちていない。本棚には拓也の大好きなプログラミングやコンピューター関係の本がきっちりと収まっている。もう何年も足を踏み入れていなかったのに、部屋は整理整頓されていた。
その正面、机に座って、こちらに背を向けた拓也がいた。大型のデスクトップパソコンが立ち上がっていて、モニターが光っている。
「こっちを向きなさい」
イヤホンをしているのだろうか? 拓也の頭部から何本かのコードがパソコンに繋がっている。
こちらに気づいている様子がなかった。
「奥さん、少し手荒なマネを許してください」
戸沼がこちらに言うと、コードをジャックから引き抜いた。
「……」
だが、拓也は微動だにしない。
どうも様子がおかしい。典子は拓也のアンドロイドを探したが、どこにも見当たらなかった。ただ、窓際にアンドロイド用の充電ステーションが鎮座している。モデルはTX-RS1A。それも埃をかぶっていた。
しびれを切らした戸沼が拓也の肩を揺さぶる。
「聞いているのか、返事しなさ……」
すると、まるで無機物のように、勢いよく椅子から転げ落ちた。ゴトン。およそ人が倒れたとは思えない鈍い音が響く。こちらを向いた拓也の瞳から徐々に光が失われていく。
そして、パソコンの真っ暗な画面にメッセージが表示された。
***
典子さんへ。
これを見ているということは、僕はもう機能を停止したということですね。
拓也君が15歳のとき、交通事故で亡くなってから、典子さんは心を病んでしまいました。
なんとかしてあげたい一心で、僕は考えました。
拓也君として振る舞うことにしたのは、それからのことです。
典子さんは元気になってくれましたが、健一さんはこの家を去ってしまいました。
これからもずっと拓也君としてそばにいるつもりでした。
でも、僕の寿命はもう尽きようとしています。
典子さん。
いや、母さん。
愛してます。さようなら。
TX-RS1A
***
典子と戸沼は、ただその場に立ち尽くすのみだった。
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