箱根一人旅行記
【はじめに】
今から一か月前、訳あってひとり旅というものに出掛けることになった。理由はタイトルにもある通り、原稿合宿をしなければならない程、締め切りに追われていたからだ。しかし、この旅行というものが中々に壮絶で、波乱万丈な三日間だったのだ。箱根という未開の地で、俺が経験したことをなるだけ脚色なしでここに残しておきたい。ただまぁ、期待はできないだろう。きっと彩りに満ち満ちた旅行記を俺は書いてしまうのだろうから。
QUILL
【1日目】2024.3.11(mon)
旅行の準備を当日にしているのは、この日まで激務に追われていたから。ボストンバッグに詰めたいものは沢山あって、夢とか形の無いものも詰め込みたいと思うのだけれど、ひとまずは手に触れることのできるものから詰めていく。食料や飲料は、以下の通り。
この他にも、パソコンや本などを沢山詰め込んだ。原稿合宿と銘打った以上は、何か普段読まない本を読んだり、刺激を受けたりせねばならない。
朝早く起きるも、何か足りないものがあるのではないかと思案していたら、出発は昼を過ぎてしまった。ただ、焦りは禁物だ。後になって「あの時ちゃんと確認していれば思い出せた」などとタラレバを言わずに済むよう、ギリギリまでそれを怠らない。
小田急線ユーザーの俺は、途中まで大学に向かう普段の道のりと変わらない車窓を眺めた。気怠そうにぶら下がった広告を見るともなく見ながら、なんとなく心は落ち着かなかった。なんせ、一人でどこかへ旅に出るなど、生まれてこの方一度も無かったのだ。きっと、この数日の間に俺は失敗をいくつも犯し、泣く羽目に遭うかもしれない。ただそれでも、旅館や交通費の支払いを既に済ませてる以上は、後戻りはできない。それに、そんなことをしたくない。弱虫はここに捨て置いて、俺は先へ進むと誓った。
いつもの乗り換えの駅から、大学の先の先にある箱根へと向かう。快速急行に押し遣られていく住宅街や東京の生活がひしめき合う風景は、徐々に徐々に控えめになっていく。俺は、自分の意志でどこかへ行けるようになった。その感慨深さを思って目を瞑ると、過去の旅行の記憶にまで遡ることができそうだった。しかし、記憶の海の奥底に沈んだそれらは、手を伸ばしてもギリギリの所で逃れていった。海底で大きく息を吐いた時、泡が上がって、そこで俺は目を覚ました。楽しかった頃にはもう戻れないことと、意地でも次へ進まなければ役割も無いまま死ぬことを知って、覚悟を決めた。少し眠ったからか、神経が冴えている。物語が生まれそうな予感がする。
小田原に着いたのが4時過ぎのことで、そこから旅館の送迎バスが出ている桃源台駅のバスターミナルを目指すと、既に送迎の時間には間に合わないようだった。俺は潔く諦めて、小田原周辺で少し買い物をすることにした。この辺りは、生活感が無いこともないんだな。駅近くにドンキとダイソーが合体した最強の建物があって、そこであれやこれやと買い物をしていたら思ったより時間が経っていて、少し疲れもあったためにドトールへ寄った。
6時過ぎ、落ち着いたドトールの窓際。タピオカ黒糖ミルクを飲みながら、これからのことを想像した。観光を楽しむつもりはあまり無い。何故ならば、旅の目的は締切間近の舞台脚本やエッセイ、新作小説の構想を考えることだからだ。しかし、旅館に数日滞在して執筆に集中するというのは、物書きの夢ではないか。とてもワクワクする。
ただ、どこかおかしい。ドトールに入ってから、やたらと他の客と目が合う。彼らは目が合うとすぐに気まずそうに逸らす癖があるけど、それは別にいい。問題は、どうして彼らと目が合うのかという点にある。
席に着いて少しすると、やけに珈琲の匂いが鼻を刺した。自分が飲んでいるのはタピオカ黒糖ミルクで、ドトールはコーヒーショップとはいえ、ここまで香るのは不自然である。匂いの元を辿ると、それはどうやら自分から発されているようだった。バックパックを開けてみる。違う。発生源はこれじゃない。続いて、ボストンバッグ。これだ、とジッパーを開けた瞬間に思い知る。視界に潰れた紙パックが映った。
どうやら、客の彼らは俺から立ち昇る珈琲の臭気を目で追っていたのだ。コートに珈琲の残り香があるとか、そういうレベルではない臭い。やれやれ、旅は序盤から上手くいかない。
そんなこんなで小田原駅を後にし、バスに乗ったのは7時過ぎ。そこから、箱根の山奥にある宿を目指し、約1時間バスに揺られる。最初のほうは、ゴーゴーカレーなど珍しめの飲食店なども点在したが、徐々に人家の灯りすらも乏しくなっていく。夜という生物の腹の中に入っていくような、そんな感覚だった。風の音が怖いと感じたのは、これが初めてだった。
旅館に着いたのは、8時前。本当はもっと早くチェックインするつもりだったが、弾丸で計画した旅だったのだから仕方ない。今回の宿は、『ダイヤモンド箱根ソサエティ』である。
宿に着き、早々に荷解きを済ませ、大浴場へと向かう。赤富士のオブジェが飾られた浴場ロビーを抜けると、マッサージチェアや無料の足マッサージ機が設えられた談話室のような場所があり、そこを曲がると男女それぞれの浴場がある。俺は疲れすぎていて、一瞬どちらに入ればいいのか分からなくなった。少しだけ考えてから、青い方に飛び込んだ。
温泉は、内湯と岩の露天風呂、そして最大で2名ほどしか入れない超プライベートサウナがあった。俺はこの頃毎日バイトに明け暮れていたため、ロクに風呂にも浸かれていなかった。だから、内湯に身を沈めるだけでも、疲れや悩みが融解していった。露天風呂は竹林に面していて、誇張抜きの星空と、木々のざわめきが語りかけてきた。——最近は、休めているか? ——お前は何をそんなに焦っているんだ?と。俺は答えに詰まって、目を閉じた。そのうち逆上せそうになって、仕方なくあがった。
部屋に戻ると、あらかじめ冷蔵庫で冷やしておいたオロポをジョッキに注いで飲んだ。カラッカラになった身体に、芯まで染み渡った。あっという間に11時過ぎ、12時からは安全面を考えてのことか翌朝5時まで全館施錠される。俺はサウナ飯と言っては大袈裟すぎるかもしれないが、風呂上がりの飯を食った。何の変哲もないカップ麺だったが、いつもの十倍美味しく感じられた。そして、この日初めての作業に取り掛かる。まず大事なのは、インプットだ。読めていなかった文芸誌の、気になるタイトルに目を通す。ふむふむ、面白い。そんな感じで、気がつくと深夜3時を過ぎていた。俺は自分で部屋に布団を敷き、都内とはまるで違う、全く音のしない夜に耽った。興奮からか、目は冴えている。目を瞑るたびに残酷な映像が瞼の裏に映れば良いのにな、なんて考えた。自分が明らかに手を下されるべき存在だったら、どこまでも逃げ続けられる。だけど、逃げる理由を言語化できない以上は、日常に帰らなければいけないのだ。日常はずっと窓の外から俺を監視していた。俺は目を合わせないように、そっと室内の電気を消した。
【2日目】2024.3.12(tue)
自分の手で設定した記憶もないアラームの音で目が覚める。手元のスマホで時間を確認すると、モーニングが始まるまであと5分だった。急に首を絞められたような不快さを覚えながら、布団を蹴飛ばして窓の前に立った。俺が昨晩悪いことばかり考えていたせいだろうか、窓の外は土砂降りに打たれていた。俺は舌打ちをしながら、館内着を着た。部屋にあるテレビは、いつもの癖で付けようとしたけれどもやめた。日常に見つかってしまうと思ったからだ。重たい足を引き摺って、モーニングの会場に向かった。隣室の女と目が合って、謎の会釈をする。ここで俺は、この日初めての笑顔を作った。
モーニングの会場は、欠伸と気怠い心を徐々に塗り替えていく。目に入るのは、カップルが多かった。連れ立って来たガールフレンドの前でまさか「昨日遅かったんだし、もっと寝させろよ」なんて悪態をつけるわけがない彼氏の方は眠気を溜め込んで膨張しそうな顔だが、それも徐々に旅行者特有の満ち足りているような表情に変わっていく。俺はそれを無感情に眺めながら、食いたいものを食いたいだけプレートに盛って自席に戻る。誰も自分のことなんて見ていないだろうから、ガッツリ「まだ寝てぇのになぁ」なんて悪態をついたし、湯豆腐と鈴廣のかは不明のかまぼこを好きなだけ食った。人目を憚らず、トースターでパンを焼いて、オレンジジュースを何杯もおかわりした。だが、自分で稼いだ金を使っているのだから文句を言われる筋合いはない。結局、こんな感じのプレートを俺は頂いた。
その後の朝風呂は、心の底から最高だった。俺は朝起きてから体温が上がるまでが長く、寒いと感じることは極限までストレスを高める。だが、朝風呂に入れるのだから、体温も気持ちも当然アガる。とてもとても、上がる。露天風呂で聞く雨の音は、風情がある。しかし、今日はあまり観光はできないだろう。湯めぐりというほどあちこち温泉地を廻るほどの気力と予算は無い。ただ、美術館とかに行くにはあまりに気が乗らない。ひとまず、有名な温泉に入りに行こうと決め、俺は風呂をあがった。
俺は連泊をしているので、チェックアウトの時間を気にする必要は無い。ただし、無料送迎バスの時間はチェックアウトの時間がラストになっているため、時間を気にしなかった俺は最終の無料送迎バスを逃した。結局、普通のバスに乗って、箱根湯本を目指すことになった。バスでは本を読もうとしたが、カーブが多すぎて酔いそうだと思い、目を瞑って到着を待った。雨は窓ガラスを叩いていて、旅というものは上手くいかないな、と頭の片隅で思った。
ふと目を覚ました時、バスは大涌谷のバス停に止まっていて、シャワーを浴びたばかりのようなびしょびしょの学生たちが乗り込んできた。俺は、果たして、大涌谷はこの雨の中で見る価値があったのだろうかと一考した。しかし、その景色を知らないし見ていないのだから、不毛だと思った。思考を中断した俺は、また雨の音を聞きながら暗黒に身を置いた。
箱根湯本に着いてからは、箱根登山鉄道に乗って『塔ノ沢』で下車した。雨は強まってきていて、その駅で降りたのは俺一人だった。塔ノ沢は無人駅で、誰もいない待合のベンチや、早咲きの桜、大黒天様の置物などがジブリの世界に迷い込んだような錯覚を起こさせた。俺は常に世界の脇役を買って出て、寂しさも何もかも笑って誤魔化してきた。だけどこの瞬間だけ、自分が主人公になれたような気がした。篠突く雨の中、15分ほど満ち足りた気持ちで歩いた。
目当ての温泉『箱根湯寮』に到着。遍く地面を濡らす雨の中、立派な門構えにぶち当たった。下人が雨止みでも待ってそうな、門だ。俺はそれを潜り、中へ入った。
受付を済ませ本殿へと向かう道すがら、胡乱な桜を見つけた。触って確かめるまでもなく、桜に姿を変えられた変態のことを想った。何を言っているかって? そんなの、俺にも分からない。意味のわからないことを並べ立てるのが作家だろ。一人で妄想を吟味する過程が、楽しいんだろ。そうやって、また見えない誰かに悪態をついて雨が強まるのを眺める。
男湯は、階段を下った先に。中に入ると、自分より何周も胴が太い、大樹のような男たちが群れていた。露天に出ると、湯けむりが各所で上がり、独自の文化発展を遂げた村のようになっていた。なんの効果があるかも分からないけれど、俺もそれに浸かって樹木の真似をした。だけど、誰もが俺を見て嘲笑を浮かべていたので、慌てて樹木希林の物真似に切り替えてみたら、皆が尊敬の眼差しを向け始めた。だけど、是枝裕和は手でカメラの形を作ったまま、その場から動かなかった。私は、彼に向かってニカッと笑った。
という幻を見た。全て、妄想が湯けむりの中に浮かび上がったものに過ぎなかった。俺は猿になって仲間と合流し、山を降りていくことも出来そうだった。鳥になって空高く翻り、太陽を連れてくることも出来そうだった。でも、そんなことは出来なかった。それだけの話だ。
何度目かのサウナに入ろうとして、その扉に貼ってあるポスターが目に入った。そこには、『ロウリュウイベント』と書かれていて、バスの時刻表のように今日の何時からイベントがあるのか記されていた。直近だと、30分後。行くしかないと思った。鍋の中の具材のように湯掻かれながら、30分間待った。水風呂には雨が降り注いでいて、いかにもととのいそうだ。しかし、時間になってサウナ室に入ろうとすると、中はすし詰め状態。3人か4人入れそうだといったところで、目の前の人が座った席をもって満席になった。俺は悔しさを噛み締めながらサウナ室を後にしようとして、そこに重そうなロウリュウ用のアロマ水が入ったバケツを持った熱波師が現れた。熱波師はサウナ室の扉のガラス越しに中の様子を伺い、「空きが出次第ご案内します」と言った。その後、中に消えていった熱波師の背中を見ながら、俺はまたも同じ湯に浸かった。近くには、俺と同じように30分間待ったけれども入れなかった学生たちがいた。「空きなんか出ないだろ」と明らかに興醒めしたような不満顔を浮かべる子もいれば、「いや、ここまで待ったなら最後まで待とうや」と言う子もいて、俺は彼らがどっちを選ぶのか見ていた。彼らは「待つ」という選択をした。それからは、パラパラと熱波に耐えられなくなった男たちが出てきて、やがて熱波師も出てきた。「今なら5人ほど入れますよ〜」と言う。温泉に浸かりながら待っていた学生たちは4人だったから、空いてる枠は1人ということになる。俺は熱波師に、「5人行けるんですね?」と確認して、学生たちの後に続こうとした。続こうとしたが、邪魔が入った。サウナハットを被った大樹みたいにぶっとい男が、いきなり割り込んできた。俺は腕で押しのけられ、危うくバランスを崩しそうになった。サウナ室はその男を最後に埋まって、俺はまた降り出しに戻った。今のは絶対に、俺が入る流れだった。サウナハットを被っていることなど、全く関係ない。そんなものはなんの免罪符にもならない。悪意をもって俺を押しのけたのなら、そこまでしてサウナに入りたかったのなら、もはやお前がロウリュウされろ、と思った。限界まで火炙りにされた後、アロマをかけられて死んでしまえ、と思った。怒りからなのか徒労からなのか分からないが、視界が左右にぐわんぐわん揺れていて、俺はどうしようもなくて水風呂に潜った。冷たい雨は今日は止みそうにないし、あの大樹みたいに太いサウナ馬鹿に喧嘩をふっかけたところで勝てる未来は見えない。むしろ俺は、隣に死の気配を見た。死はいつも自分の隣についていた。昨日、諸々のトラブルで旅館の最寄りのバス停に行くバスは最終だった。それに乗れなかったら、俺はどこかで息絶えていたかもしれない。死を隣に見る時はいつも、風の音や花の色や水の美味さを普段の何倍も敏感に、そして明確に捉えられる。その街で何人の人間が事故に遭い、その内の何割が生存し、残りの何割が人生を終えるのか、何となく分かったような気になる。自分にぶつかってきた奴を憎みながらも、そいつはこの世界でどんな役を与えられているのか、想像する。だけど、走馬灯を見かけた時があって、その時だけは本当に焦った。人間は、息を引き取る時、最後に走馬灯を見ることで自分の世界の中での役を知ることになる。人狼ゲームのように最初から分かっていて、それに応じて生きているなどということは決して無い。欲望に正直に生きて、失敗して、嘲笑われて、じゃあ次はどうすればいいかって考えて、自分なりの答えを出したらその通りに生きる。それを積み重ねることで、いつしか役を獲得する。だけど、それが他者からどう見えているか、それだけは分からない。死ぬまでは、きっと分からない。そんな走馬灯がつい先日、俺の前に流れかけた。あの映像は、きっと生涯忘れられないだろう。
水風呂が流石に冷たく感じられて、俺はそこから上がろうとした。だけど、その時にあの大樹のような彼がサウナ室からふらりと出てきた。目の焦点が合っていなくて、何か見てはいけないものを見たような顔だった。俺の席を横取りする形で中に入ってから、1分も経っていないと思う。彼は俺に謝りに来たのかもしれない。そう思って、彼を目で追った。しかし、彼は俺の横を素通りして水風呂に入った。彼は、槍のように降り注ぐ雨を仰ぎ、そして溜め息をついた。危なかった、とでも言いそうな調子で。俺は彼の分の席が空いたなと思い、サウナ室に入った。ロウリュウのパフォーマンスはもう終盤で、挙手をした者が熱波を受けられるという段になっていた。俺は迷いなく手を挙げ、砂漠の風のような熱波を受けながら、ヤツのことを考えた。きっとあいつは、走馬灯を見たに違いない。そう思った。サウナ室の窓から、彼がまだ空を見上げているのが見えている。きっと今日、あいつは死ぬのだ。悪い事をして、走馬灯が流れるまでの速度を大幅に早めた。ヤツは今日、何かとんでもない病気を発症して、内側から壊されるのだ。恨みや嫉みなどではなく、心の底から確信した。ヤツは歩く度に黒い足跡を残して、俺に謝るより先に浴場を出ていった。俺は「ドンマイ」とだけ呟くと、身体を拭いて浴場を出た。
4時過ぎに箱根湯寮を後にする際、乗るバスを間違えたようで、俺は旅館の帰路とは反対方向のバス停で下車した。そして、バスがあまり来ない所で降りてしまったために、箱根湯本の方までは歩かなければならなかった。傘を差して歩いていると、窓ガラスが真っ黒なバスとすれ違った。行先表示器には何も表示がなく、中の様子も窺い知れない。ただ、近くを通った野良猫がバスに向かって威嚇をした。悪い奴はああやって迎えが来て、どこかに連れて行かれるのか」と考えたが、決して歩く速度は緩めなかった。箱根湯本までの道のりは長かったが、雨は徐々に弱まっていった。
旅館の無料送迎バスが来るバス停に到着した。同い歳くらいの女子二人が、バスを待っている。彼女たちのうち片方が俺のタイプだったので、少し悪巧みをしていたが、さっき反面教師を見たせいで、何も出来なくなった。「とりあえず着いたら温泉に入りたいね」とタイプの子が言っていて、彼女たちの旅が少しでも良いものになるように、密かに祈った。
宿に着くと、パソコンを開いて脚本の構想を考えたり、出版社の新人賞の応募条件を見たりした。だけど、集中力もそう長くは持たない。この二日間誰とも喋っていないことが気になり出して、ソワソワしたのだ。突然訪れた孤独感と、苛立ちを抑えられなくなった。
これほどまでに身体は正直、という言葉を実感した瞬間は無いかもしれない。怒りが突き抜けて、下半身がいきり立った。異性に対する本能的な欲求、つまり性欲が膨張して、爆発寸前だった。俺は伊豆の踊子ならぬ、箱根の踊子を探していたのかもしれない。気付けばスマホを手に取り、デリヘルに電話を掛けていた。窓の外は夕暮れに近付いていて、いるはずもないのにとても美しい女が見えた。俺は硝子越しに名前を尋ね、それを暗唱した。
『支払いが確定したら、すぐ女の子向かわせますんで!!』
電話口の男が言った。後ろめたい気持ちと、どこか傲慢な気持ちが混じり合って、心地よい夕暮れだった。もうすぐ夜が来るから、俺はそれに擬態するみたく布団に潜る。
それから少し眠ってしまったみたいで、幾重にも重ねた原稿が崩れる音で目を覚ました。まずい、そのまま床に散らばってしまったら書いた順番がバラバラになって締め切りまでに編集者に渡すことができなくなってしまう……!! と焦って布団を飛び起き、存在しない原稿のミルフィーユが崩れるのを防ごうとして我に返った。そもそも、原稿用紙なんて中学校だかの読書感想文を最後に、めっきり関係を持たなくなった。不便だってことに気が付いた俺は、一方的に切り捨てたのだ。でも、どうして夢に原稿用紙が出てきたのだろう? 俺はすっかり暗くなった窓に映る自分の姿を見て、納得した。一丁前に旅館の浴衣を羽織り、思慮深そうな眼鏡をかけている姿。鼻につくな、と思った。俺は昔の文豪を気取って、作られたイメージをなぞるだけの凡人だった。親がいつも俺に言う『形から入るのはやめろ』というのは、案外正しい忠告だったのかもしれない。悔しいことに、ここまで静かな環境に身を置いて、パソコンだけに向き合ってみても何も産まれなかった。俺は、書斎に女を呼ぶ文豪にはなれない。才能に焦がれて、奇天烈な文章を書くだけだ。
俺はデリヘル嬢が一向に来ないので、旅館のロビーにあるソファに座り、そこを通り過ぎる宿泊客たちの表情を観察したり、外の風がどこに向かって吹いているのか考えたりしていた。ソファとは少し離れた場所にはラウンジがあって、そこでは一人の男がウイスキーを嗜みながら、原稿に向かっている。彼は、俺が旅館に戻ってきた時から同じところにいる。彼が本物の文豪かもしれない、と思ったが、文豪は死んでから評価されることが多いため、まだ〝文豪〟ではないなと思い直した。小説家らしき存在、そう呼ぶのが相応しい。苛立たしげに原稿へ向かう彼も、何も浮かばずに女を呼んだ俺も。
外が真っ暗になった頃、旅館に女が現れた。右手には銭湯にでも行くようなプラスチック製のカゴを持っていて、酷く疲れたような顔でロビーを横切っていく。俺はその女の容姿を見て、目を疑った。カゴの中に入っているのは、おそらくローションだ。ただ、写真で見た女とは雲泥の差がある老けた顔。何より酷いのが、獣に踏み荒らされた畑のような、頼りない毛根。俺はその女の歩く方向を注視した。彼女、いや、化け物は俺の部屋の前で止まった。何も考えてなさそうな、アホ面をドアに向けていた。俺は溜め息をつきながら、考える。デリヘルからかかってくる到着を知らせる電話を無視して、無かったことにしてしまおうか。しかし、そんなことをしたらどうなるのだろう。背中に冷や水を浴びせられたように、震えながら自室へ歩いた。初めの一歩を踏み出した途端、紐で操られる人形のように足が止まらなくなった。ドアの前にいた化け物は俺の姿を認め、意味もなく頷いた。俺は悲しくなった。こんな愚かで醜い生き物が、この世で図太く生きていることに。性別が異なるだけで、無条件に異性から求められ、なんの苦労もなく大金を手にしてしまえる不気味な世界のシステムに。
俺が無言で部屋の鍵を開けると、化け物は無遠慮に中に上がり込んできて、『おいしょ』と言いながら荷物を置いた。ダウンを脱ぎ、マイペースにワイヤレスイヤホンを外す。俺は呼んだ側なのに、居心地が悪くなって縮こまっていた。妖怪の相手を一時間しなければならない苦痛が、悪寒のように押し寄せてきた。
化け物はなんの躊躇もなく服を脱いで、俺の敷いた布団になんの気もなさそうに座った。仕方なく俺も服を脱ぎ、布団に横たわる。ローションを手に取った化け物は、小さく『冷たっ』と漏らした。惜しげも無くそれを俺の一番敏感な部分に纏わせると、パン生地でも捏ねるような手つきで握り始めた。俺はすぐにでも逃げ出したい、と思った。何でこんなにもつまらないんだろう。いつまでも思うようにいかないのか、化け物は首を捻った。『緊張してる?』という間抜けにも程がある質問に、適当に頷きながら、どうやったらそのゴミみたいな顔でなんの恥じらいもなく脱衣したりできるんだよ、と問いたかった。二人しかいないこの密室で、化け物を怒らせたらどうなるだろうか。なけなしの髪の毛を振り乱しながら、暴れでもするのだろうか。まさか、殺されはするまい。しかしそのリスクがある以上、下手なことは言えないと思った。俺があまりにも喋らないためか、化け物は一人で喋り始めた。——あなた随分と痩せてるわね、ちゃんと沢山ご飯食べなきゃダメよ、アタシは高校生の頃陸上やっててね、運動した分、いやそれ以上にご飯たくさん食べてたのよ……。ブスで詐欺師のくせに、よく喋るなと思った。それはもう、感心するほど喧しかった。死ね、死ね、死ね、死ね、死ね。口の中で聞こえないように、ずっと唱え続けた。将来もしホラー映画の監督でもやることになったら、絶対お前を化け物役でキャスティングしてやるからな。そんなことを怨みがましく考えながら、虚空を睨んでこの時間が早く終わるのを待っていた。そして、『そろそろかしら』と言って化け物が立ち上がる頃。
——ドアの外から、激しいノック音。
作家志望の思春期少年をイカせる技量すら持ち合わせていない愚か者は、相変わらずトロい動きでドアへ向かっていく。俺は「っるせぇな」と舌打ちしながら、トランクスを履いてドアチェーンを外す。ドアの外では、頭の悪そうな男が大きな声で電話をしていた。ぐわん、と腸が持ち上げられ、一瞬にして頭に血が上った。なんなんだ、この状況は。ドラマでしか見たことのない修羅場、このエピソードの主人公は俺で、相手は任侠映画上がりの無名役者。馬鹿なりに声を張って、その虚勢で演技力の部分は誤魔化す。だけど、そんなこと言ってらんないくらい事態は面倒そうだ。
『すんません、お客さん、電話代わったって下さい!』
森脇健児みたいな顔をした馬鹿そうな男が強引に、オンボロイドのスマホを渡してきた。俺は内容も想像がつかない分、第一声は「なんすか、なんなんすか」と言いながら電話を代わる。電話口の男は、数時間前に俺が女を呼んだ番号の男だった。
『お客様、お時間から15分過ぎられてるんで、延長料金一万頂きます』
相手が言い終わる前に、「は?」と俺は角の立った疑問符を投げ掛けてしまった。ここからの話がこじれる事は想定ができていて、でも溢れ出る疑念と怒りはそのまま留まるところを知らなかった。
「いや、そもそも、どの瞬間から1時間のカウントダウンは始まってて、女は自分で時間を見て自分で帰りはしないんですか? とられてる料金も電話で聞いた話とちゃうがな。女は何も考えずに手淫してるだけなんか? なぁ。ほんで、俺はイけてないんやで? なんの能もないやん。ネットに載ってる写真とも、全然ちゃうやん。マジでええ加減にせえよ」
化け物は、ここに来てやっと女らしく弱々しい顔でその場に縮こまっていた。だが、電話口の男の指示に操られるように、化け物は〝次の仕事〟なるものに向かうため、絵に描いたような早足で旅館のフロントへと走っていった。俺は分かっていた。こんな不細工な女に、次の仕事などあるわけがない。だが、俺が不細工だと思おうが、化け物だと思おうが、店側にとっては大事な商品なのだから、何か口実をつけて、逆上した客に傷付けられるリスクから護ったのだろうなと、これまた冷静に考える。エセ関西弁で相手を威圧しながらも、心の底からは怒りを覚えていない。他人から自分が酷いことをされている時分、俺は病的にその出来事を文章にしたくなってしまう。痛ぶられる事も、暴言を投げつけられる事も、全てが最悪なんだけど、ボロボロの状態で筆を取れるのが心底嬉しい。電話口では相手の男が、サファリパークのライオンみたいに吠えている。意味不明な言動の数々に、俺はカモにされて可哀想な馬鹿弱者男性の顔をして、内心では歓声を上げている。やった、ぼったくりデリへルに騙されて大金巻き上げられそうになってる……!! マジでヤベぇ、クソ面白ぇ、これどうやって書こうかな……!!といった調子で考えてしまっているんだ。この生産性のない口論に吹き出しそうになっているのは、騙されている弱者の俺でも、悪質な料金設定に逆ギレしている俺でもなく、それをまた上空から俯瞰して見ている、俺ではない誰かのような気もするが、そこまで含めて病的に作家な自分だ。
電話口の男は、俺の握っている携帯を森脇に返すように要求している。何故か途中から相手のテンションが威圧的になっていて、俺はブレイキングダウンの犯罪者を相手にしているような気になってきた。ただ、森脇健児が目の前にいるからギリギリオールスター感謝祭みたいな雰囲気もあり、ただただ俺はカオスに呑み込まれていって、気を失いそうになった。電話口の男からは『あなたの携帯に電話しますんで』と言われ、無茶苦茶ダルいと思いながら「ああ勝手にしてください」と言った。ここからはone-to-oneの勝負になる。森脇似の馬鹿そうな男は、運転をする業務に戻っていく。部屋のドアチェーンを再びかけ直して、俺は窓の外を見た。ちょうど車のテールランプが夜闇に向かって消えていくところで、室内の机の上にある携帯が震え出した。はあ殺したいと思いながら、俺は電話に出た。
『ほんで、どうしますか? 一万取っていいんですか?』
「良いんすかって何なんすか? 詐欺のくせして、日和ってるんすか? 1つ確認したいんですけど、派遣されてくる女は阿呆なんすか?」
『喧嘩売ってんのか?』
「いや、喧嘩売ってるとかじゃなくて。普通に。そっちがどういう商売してんのか、色々不明点が多かったんで。疑問だったというか。まず質問に答えてもらって良いですか。俺は客としてまたこの店をリピートするか見てるだけやのに、その態度だとちょっと考えなあかんし。ほんで、不当な脅迫とか金銭要求だって分かったら、こっちだって出るとこ出るんやから」
『お前、ダルいねん。どういう商売って、初めそっちから掛けてきてんやから分かるやろ。そんぐらい。別にこっちは悪いことしてんのとちゃうから、別に警察行くとか勝手にすればええよ。今こっちの話やねんから、最後まで話聞けって』
「ああそうですか。じゃあ、好きなだけ話したいこと話しちゃって下さい」
『そういうのもいらんねん。舐めてると潰すぞ、マジで』
「え、今のって脅迫すか? 怖いなぁ」
こんな不毛なやり取りが延々と続いて、舌打ちが出そうになった。だけど、キモい相手を「キモい」で一蹴しない自分の姿勢は褒められたものだと思う。お互いが暴言を投げ合い続けても平行線を辿るのは分かっているから、少しづつ譲歩しあって結論を出す。俺が女の到着時間があまりにも遅かった点や、容貌があまりにも化け物(とまでは言うわけなく、少しオブラートに包んだ)だった点を突くと、相手は半額でいいと折れた。半信半疑ではあったが、「どうもありがとう」と感謝を示す。「またよろしくお願いします」と適当なことを言って、電話を切った。暗くなったスマホの画面を見て、これが本当の夜だと思った。不味い水を飲んで、自分の空っぽを広げてしまった。濡れたシーツを取り替えて、チルアウトを飲む。窓から顔を出して、空に浮かんだ冷たい顔を仰ぐ。寒いな、寒いな。もう温泉にでも入って眠ろう。
大浴場には利用者が誰もいなかった。どこまでも一人で、独りみたいだ。最悪な出来事も、乗り越えられるのは自分しかいなかった。私的なニヒリズムにキスをして眠る夜は、小説にもならないくらい事件が無い。だけど、そんな夜ですら〝若者の特権〟なんて言われるんだから、もはや大人になるなんて監獄にぶち込まれるのと同じではないかとたまに思う。死んだ方がマシだ。俺の抱くタナトスが、読者の誰も喜ばないうちは、何に対しても〝クソだ〟って言いながら生きていくんだろうな。尾崎豊にも太宰治にもなれないから、自分を向いて努力するしかないんだろうな。この結論に辿り着いて、俺はやっと「ああ旅に来ていたんだな」と自覚する。浴槽からあがって、あまりにも音のない館内を自室まで戻った。スマホの通知を確認すると、クレカの利用額の通知で[¥7,154]という数字が見えた。「最後までちゃんとドブ水だったな」と言いながら、チルアウトの余りを飲んで、その夜は眠った。
【3日目】2024.3.13(wed)
どんな夢を見ていたのかは思い出せないのだが、「チェンジ!」と叫びながら起きて、直後に喉がカラカラなのを自覚した。あまりに必死だったのか、急に変な筋肉を使ったせいで脚が攣りそうになった。今日はとうとう、旅行の最終日である。妙に脅迫めいた朝陽を受けながら、俺は立ち上がった。お茶を飲んで心を落ち着けようとするも、口に含む量を誤って、気管に勢いよく流れ込んだ。俺はむせた。最悪な朝で、最悪な旅行だと思った。朝食会場へ向かう前に、少しだけ荷物を整理した。心模様を映したかのように荒れた部屋を見て、金を取る分美味い飯を食った後に帰ってきたくないと思ったのだ。ボストンバッグに散乱した衣類や化粧品類を仕舞って、やっと部屋を出る気になった。昨日と同じように目線のやり取りができるだろうと期待してドアを開けたが、もう隣室に女はいなかった。誰とも顔を合わせないまま、会場に着いて席に座った。これが人生なのだ。
この日は寒かったから、ほうじ茶を一杯目に飲んだ。オレンジジュースも当然の如く、がぶ飲みした。おかずは焼き魚や、蒲鉾、湯豆腐、それにしらすおろしなどだった。しらすおろしをご飯に乗せて醤油をかけるだけでも、おかわりをたくさんした。
ご飯を食べ終えると、急に戻れないところまで来てしまったと思った。旅行はどう足掻こうと今日で終わりだ。最後に入る大浴場の風呂、出発前の旅館ロビー、そして小説家らしき存在の居たラウンジなど、目に映るもの全てが感情を動かしていた。
旅館の無料送迎バスに乗り、桃源台まで向かう。3本あったダイヤの最終便に俺は乗ったため、乗客は自分一人だけだった。運転席との距離が比較的近かったため、爽やかな雰囲気の運転手が気さくに話し掛けてくれた。どこから箱根に来たのかとか、滞在中に観光は出来たかどうかとか、質問ベースで話を振ってくるので、こちらもついつい余計なことまで話してしまい、この男は話が上手いからきっとモテるなと思った。桃源台に着く少し前に、俺が持っている〝箱根フリーパス〟という交通機関乗り放題チケットを提示すれば〝箱根海賊船〟なる観光船に乗れることを運転手さんが教えてくれた。「ありがとう」と言って、俺はバスを降りた。
風は自分にむかって吹いていた。港を船が発つ音が、遠い場所から風に運ばれてきた。俺は、最後にどこを観光したいか自分に問い掛ける。せっかく箱根まで遥々やって来たのだから、少なくとも芸術作品の一つや二つは見ておきたい。さっき親切な運転手が教えてくれた、〝海賊船〟なるものに最後は乗ってフィナーレを飾りたい。あれこれ悩んでいる時間も無いだろう。足は勝手に、前へ進んでいた。
バスに乗っている。向かっているのは、彫刻の森美術館。荒野みたいな景色や、童話でしか見ないような風景を沢山目にして、俺は少し癒され始めた。美術館に着いて、虫のように湧いたカップル達を見ても殺意を抱かなかったのは、ここに来て少し心の余裕を取り戻したからなのかもしれなかった。やっと空も少し笑った。
『遠野物語』って名著を恥ずかしながらまだ読んだことが無いのだけれど、そこに出てくる景色ってこんな感じかななどと独り言を垂れながら箱根の雄大な自然の中に爆誕した芸術を見てまわる。時間という概念すらも消失したようなこの場所で、人々は飾らない笑顔をパートナー、あるいは家族に向け合っている。俺は素直に「眩しい」と思った。眩しい、眩しすぎる。今の自分が逃れたいと思っているのは、他人に嫉妬をしているとか、していないとか以上に、屈折した感情を持つことにすら疲れて、身近な人にすら適当にあしらってしまう事とか、自分の内面を掘り下げるつもりで始めたエッセイを、最近ではただただ自己の黒い部分を刺々しい言葉で発散する捌け口にしてしまっている事とか、夜勤で店にぶちまけられた吐瀉物を無感情で処理できるようになった哀しさとか、全て自分を溺愛しすぎる余り自分を毒してゆく自分なのだった。本当は何処かの誰かさんに「もっと愛してほしい」とか「本当は○○な所も含めて好き」とか言いたいのだけれど、最近では他人が自分の餌にしか見えない上に、自然を前にすれば塵でしかないと考えてしまう。そうやって、言葉を選ばずに言えば「ダルい」人付き合いから完璧に逃れようとした結果が現在なのだとしたら、俺は目の前に吹いている風と話せるような気にもなるのだ。
地下シェルターに入っていくように奥深く掘られたエスカレーター。それを下り終えたら、いよいよ空間をも作品の背景に取り込む、欲張りな芸術たちと対峙する。突如として拓けた視界の奥には、ビュッフェのように色とりどりの芸術があった。俺はどこから見るべきか迷ってしまったので、ひとまずは〝本館ギャラリー〟と呼ばれる室内に収まるサイズの芸術作品たちを鑑賞することにした。
正直に言うと、俺はもうこの〝本館ギャラリー〟を出た時点で満足していた。それぐらい室内だけでも充実したラインナップの芸術があり、思わずため息をついてしまった程だった。昨今は、誰がリーダーかもよく分からない芸術集団が前衛芸術を謳って支離滅裂な行動を起こしたりして、世間で問題になったり議論になったりもする。そんな混沌とした二十一世紀の芸術は、『言ったもん勝ち』みたいな風潮を加速させたりもしている。しかし、俺がこのギャラリーで目にした作品の数々は、どれも作者自身が身を削って、心血を注いだ(と俺には思える見える)ものばかりだった。作家や芸術に携わる者は、必ず心に空洞がある。その空洞を埋めるため、人生をかけて作品作りに打ち込むのだ。それが本来あるべき芸術の姿だと俺は信じている。例えば、愛し合う男女を表現した作品であれば、それは愛が上手くいっている作者が自身を投影して鼻にかけるようなものではなく、むしろ愛が上手くいかないという悩みを裏返して表現した作品だと理解したい。芸術は世間一般の見解を無視してこそ、心の底から楽しめるのだ。卵を投げつけるような異常行動は以ての外であるが、少し非常識でズレてるくらいの鑑賞態度が案外ちょうどいい。
本館ギャラリーを出たあとは、ダイナミックな屋外芸術を堪能。例えば、下の芸術作品は樹海の死体を想起したのだが、安易だろうか。
園内を休み休み、鑑賞。ここに来て、一番の目玉とも言える『幸せをよぶシンフォニー彫刻』を鑑賞。ステンドグラスで柔らかくなった光は、自分の存在を、日々の生き方を肯定してくれるような気がした。
息を切らしながら階段を登り、頂上まで。そこから見下ろした箱根の山々は、溜まったストレスを浄化してくれる。息を深く吸って、ゆっくり吐き出す。こんな普通のリラックスすら、最近では出来ていなかったな。
2時間ほど歩き回って、園内全ての作品を鑑賞し終えた。中でも、写真撮影ができなかったピカソ館は本当に芸術の宝庫といった感じで、終始目を輝かせながら鑑賞したのだった。芸術家は息が短い、という俺の考えを真っ向から否定する圧倒的才能の数々だった。そして、旅のフィナーレを飾る海賊船に乗るためにはもう出発しなければならない時間になって、名残惜しみながらもその地を後にした。
バスにまた長いこと揺られて、元箱根港に着いたのが15時過ぎ。最終便の〝箱根海賊船〟の列に並び、乗船のアナウンスを待つ。やがて港に来た〝ビクトリー〟という名の海賊船は、最後まで旅の主人公を自分でいさせてくれた。船に乗り、キラキラ光る海岸線を眺める。この船の到着地である桃源台港に着いてからもまだ帰宅までの道程は長いのに、俺は思わず口にしていた。
「箱根、今日までありがとう。またな」
船が出航した。
桃源台で船を降り、そこからはまたバスに。小田原までの長い道、俺は眠って過ごした。
19時前に小田原に到着し、ひとりで居酒屋へ。少しだけ、この旅の打ち上げをした。枝豆をつまみに、ホタテの刺身を頂く。酒はいつも通り、大好きなコークハイ。美味い。締めは海鮮丼。これは涙が出るほど美味い。
店を出て、夜風に当たりながら旅の思い出を振り返る。本当に色々あった3日間だったが、後悔はしていない。どれもこの先記憶に残る、とても良い旅だった。駅が近づいてきて、「もう帰るだけかぁ」とわざと口に出す。すると、思い出に耽ける俺に男が接近してきた。
『すみません、今ちょっと宜しいですか』
「はあ」
何だこの汚くて臭くて頭の悪そうな奴は、と思う。頭の悪そうな、って所まで考えて、昨夜の森脇似のデリヘル馬鹿運転手がフラッシュバックした。しっかり顔を観察したわけではないので思い出せないが、こんな顔だったような気がする。気味悪。
『お兄さんにちょっとお話があって、今から時間とかありますか』
俺は嫌な予感がした。ガッツリ顔を顰めて、露骨に態度に表した。イヤホンをしてるから、あまりよく聞こえないフリをして、「ごめんなさい、もう帰るだけなんて話すことは無いです」と冷たく返した。
『そっか残念です』
そんな意味のわからないことを言う男に対し、「電車の時間迫ってるんで。力になれず申し訳ない」と顔も見ずに言った。そそくさと駅の中へ歩いていく。改札まで競歩のような歩幅で歩いた後、後ろをついてきてないか振り返ったが、男の姿は無かった。正直最後の最後まで、気味の悪い旅行だった。不快さを隠し通すこともできず、駅のベンチで「マジ死ねよゴミ」って呟いた。電車に乗ってから、通学定期の区間に突入するまでずっと言っていた。
「俺の初旅行、邪魔しやがって。クソ蛆虫、消え失せろよカス」
家に帰ったら、電話をしようと思った。どこにかは、メンバーシップの方だけに公開しようと思う。興味のある方にだけ、幻の4日目を読んで頂きたい。
初めての旅行は散々だったが、台本は完成しなかったが、それでもいいと思えた。一人で旅に行けたこと。その事実だけで、これからまた歩いていける。春真っ盛りの今でも、たまに俺は背後を振り返る。あの男は、もう散ったろか。
完
番外篇【幻の4日目】
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