日向坂の上の知られざるストーリー

日経の夕刊に連載記事を書いている堀川惠子さんの「教誨師」という本を読みました。この本は日向坂の上にある當光寺の住職で死刑囚と向き合う教誨師を務めた渡邉普相さんの話です。
恥ずかしながら、教誨師という言葉も知らなかったのですが、なんとなく、罪を犯して刑務所に入っている人たちに心のケアをしたり、善に目覚めさせるような取り組みは行われていることは想像していました。死刑囚はいわばやり直しがきかない人ですが、その人たちに向き合う人がいることも、いるのだろうくらいに漠然と思っていました。
死刑の是非について、どうこう言えるほど知見はなく、また被害者のことを思うといたたまれない思いがするのですが、教誨師である渡邉さんの回想を通じた死刑囚の話を聞くと、そこに至るまでのさまざまな経緯や環境があり、死刑にすることだけで、解決できる問題ではなく、社会全体の改善をしていかないと、本当に凶悪な事件が起こらない世の中に変わらないことを実感します。
しかし、教誨師に社会全体を変えることはできないし、死刑囚にやり直す機会は与えられない。ましてや教誨師の仕事自体も基本的にはクローズされていて、世の中に知ってもらうこともできない、、、
そういう中で半世紀近く対話を重ね、死刑執行にも立ち会った渡邉普相さんは大変な想いで教誨師を務め上げたと思います。
私たちは仕事を続けていく中で、達成感を求めてしまいます。多少苦労しても、1つの結果が出たとき、「やったー!!」と喜ぶか「あぁ、何とかできたな」と胸を撫で下ろすかなどいろいろありますが、何かしらの達成感を感じ、それを次の仕事への活力にしています。
あるいは変な正義感を発揮してしまうこともあります。善かれと思い、相手が反論できないようなことを積み上げ、自分が正しいと思っていることを押し付けてしまうこともあります。本当は戦略的にも正しくなく、本当に善いことでもないことを、さも「間違っていないのだからやるべき」などと言って自分のエゴを出してしまうこともある気がします。
しかし、教誨師の仕事には基本的に達成感を感じることも、正義感を発揮して、ヒーローぶることもありません。なおかつ世の中の矛盾ややるせない想いに駆られることも少なくなかったと思われます。
それでは、なぜ続けることができたのかなどと思ってしまうのですが、達成感を求めることや正義感を発揮したがること自体が浅はかというか、ナンセンスなのかもしれないと思いました。
マズローの欲求でも5段階ではなく、4段階目の承認欲求や5段階目の自己実現欲求を超えた 自己超越欲求というのがあると言います。
渡邉さんには、若いときの強烈な原体験と、社会に繋がることをしたいという強い使命感があったと書かれていました。本人も気づかぬまま、自己超越欲求の境地に到達していたのかもしれません。
私自身が現在何ができるのか、将来何ができるのかなど未だにわからないですが、自己実現欲求の先の景色も感じることができたら違う世界に入ることができるのかもと感じました。

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