神経発達症(発達障害)息子の母になる〜母の入院と息子の幼稚園①
義母が亡くなり
母は義母が亡くなる少し前から入院生活がスタートし、半年間は病院で過ごすことになりました。(もちろん、たまーにですが退院もできます)
当時やりとりしたLINEはこのような感じ。
最初の方は食事についての感想ですね。笑
(後半は抗がん剤についてです。)
この抗がん剤治療を乗り越えると
普通に元気になって、
あれを持ってきて!
これを持ってきて!と連絡がたくさんきました。
個室だったのですが乾燥がひどく
加湿器と、寒いので羽織もの、帽子
ご飯や水(水は臭いと言っていました)が
おいしくないのでスープやパンが欲しいというので、パン屋さんに行ったりスープは無印さんのものを買って持っていっていました。
コロナ禍なので、荷物の受け渡しをしたら
即さよならです。
それでも食べ物を欲しがったり、
ああだこうだ、とワガママを言っている内は安心です。
母の抗がん剤治療は
吐き気どめの効果もあって
髪の毛は抜けていましたが体は
痩せたね!というほどの変化はありませんでした。
祖母宅で週2〜3くらいで通いテレビ電話していたのですが、母の姿を見ると
「あんたほんとに病気なの?
病人には見えないわ!」
と言って笑っていました。
祖母は変わらない母の姿に安心していた様子で
病気発覚当初は、祖母の方が病んでしまうんじゃないかと心配していましたが
杞憂に終わりました。
もう一つの心配の種である息子は
コロナのクラスターが市内複数で認められたことと母たちの病気が良くない状況だったため
幼稚園にあまり登園していなかったのですが
母の入院を機に、ぼちぼち行くようになっていました。
しかし。
3歳少し前で、
遅めの突発性発疹で入院した時、
看護師さん達に押さえつけられて点滴の注射を何度も刺されたトラウマがある息子、
幼稚園の初登園では、
女の先生がたくさんいることにパニックを起こし
泣きながら逃げ回り、
初日は、うんちを漏らしてしまうほど怖かったらしく片付けが大変だったそうです。
そこからしばらく、
女の先生方から逃げ回る生活が続きましたが
息子を助けてくれたのは同じクラスの女の子でした。
Cちゃんという、その女の子は
言葉が遅い息子のアテンド役だったそうで
他害のある息子が、
その子には最後まで手を出さなかったらしいのです。(Cちゃんに抱きつかれたりしても息子は黙って受け止めていたらしい)
「最初は私達みんな◯◯(息子)とすれ違うこともできなかったんだけど、やっと出てこれるようになったわ」
と副園長に言われた時は
登園から1ヶ月経過していました。
「あまりにも幼稚園生活に慣れないんで
1ヶ月は昼前にお迎えに来て下さい」
と言われ、
登園から帰宅まで2時間ちょっとで迎えに行かなければならず
そんな短い滞在時間で慣れるわけないのでは、と思っていましたが…
1ヶ月かかって、ようやく慣れたようでした。
通常登園になってから
息子に加配がつくことになりました。
元来、未満児クラスでも一緒の班だった友人の同級生の方が加配でつくはずだったのですが
副園長との不和で辞めてしまい
園長、副園長の知り合いだったらしい
男性が加配担当となっていました。
彼は作業療法士だったようですが、
保育士や幼稚園教諭の資格はないということでした。
挨拶させていただいた際、
目も合わない上に
「…Oといいます…」
のみで、
(よろしく…とかないの?)
と、とても不安に思ったのを覚えています。
この一抹の不安が、後に的中します。