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満足感と空虚感の行きつく先 - 人生の本質とは ~新社会人のサバイバル日記~

 本日は「満足感と空虚感の行きつく先」についてお話ししたいと思います。これは私と友人との話の中で深めたテーマです。

 満足感と空虚感、満たされている状態と空っぽである状態は、両極端にあると思います。両極端にあるからこそ、相容れない関係性であり、その立場は違うはずです。しかし、私は一つの仮説を立てました。それは満足感を得るために欲求を満たすことと、空虚感・つまり空っぽな状態が完成されたときに、人間はどういう感情を抱くのか、あるいは感情を抱かないのか、どういう思いが溢れるのかについて考えた仮説です。

 私の仮説は、満足感の先と空虚感の先の答えはもしかしたら同じではないかというものです。例えば、欲求を満たす段階において、人は努力をしたり、利己的になったり、協力したりして目標を達成しようとします。その中で叶ったり叶わなかったりして生きていくと思います。ほとんどの人は道半ばにやりたいことが残ったまま生命を終えるのです。しかし、もし全ての目標を達成したらどうなるのか、どういう感情を抱くのか。私はとても刹那的なものがあると思います。満足感を得た先には、次に起こることすら浮かばない状態が満足感であると思います。本当の意味でのその先というものは何も感じない世界だと思っています。

 例を挙げるなら、私は呪術廻戦のアニメ編で見ていたのですが、五条悟が漏瑚(じょうご)と戦うシーンで、領域展開を見せる場面がありました。
(呪術廻戦を見ていない人はすいません、お付き合いください)
その時、五条悟が「皮肉だよね。全てを与えられると何もできず緩やかに死ぬなんて」と言っていたのが印象的でした。これは本質的な考え方だと思っていて、与えられたもので満たされた時に人間は何も感じないのです。これが満足感によってたどり着く一つの仮説的な答えです。

 一方で空虚感。これは現実世界でも見られることです。例えば、友人や近しい存在が適応障害やうつ病、パニック障害などに陥っている場合、空っぽな状態になることがあります。その空っぽな状態というのは、心がキャパオーバーであったり、何かしらのエラーによってエネルギーや生命力が全て抜き取られた状態です。この状態になると、何もできなくなります。立ち上がることも、寝ることも、食べることもできない。これは空虚感がたどり着く先であり、何も感じない状態です。(姉がいるのですが以前に適応障害になり、そばで見ていて歯がゆさと、何もできない自身への悔しさがありました。)

 満足感と空虚感は直線上では両極端にあるように見えますが、仮説として答えは同じ部分に陥るのではないかと考えました。つまり、直線上ではなく曲線上にあり、円を描いていった先に満足感と空虚感が重なる部分があるのではないかと思います。

 もう少し掘り下げて考えてみると、何も感じないという言葉を使いましたが、その次のステップとして、何も感じないからこそ終えようとする、つまり命を終えるという行為が生まれるのです。空虚感や満足感に満たされた時、欲望がなくなった時に何も感じないはずなのに自ら終えようとする発想が生まれるのです。これは今の私には説明はできませんが、ここに人間の弱さと強さ、未知数な部分があると思います。(言語化出来たら共有します、いつか。)

 ではどうすればいいのか。その両極端な状態の真ん中は何か。人間を形成していく上で生きていく上で大事なキーワードは悩みだと思いました。悩みというのはエネルギーにもなり、前に進む理由付けでもあり、自分自身を正当化するものでもあります。悩みがあるから努力して良い方向に進む。悩みがあるからエネルギーが取られてどうしようもなくなる。しかし、この悩みがなくなった時に人間はどうなるのか。私は悩みがなくなった時に人間は本来の力がなくなって、主体的な自分が死んで受け身の人生が始まってしまうと思います。これでいいやとか、これくらいでいいだろうと。そういった悪循環に入っていくのです。

 だからこそ、自分自身を律していくことが大事なのです。その上で悩みというものはエネルギー、原動力になり得るものだと思います。結論として、満足感と空虚感の行き着く先は何も感じない状態であり、この中道を行くものが悩みであり、この悩みが生きていく上の原動力となり、自己形成をしていくためのガソリンとなるのです。

 悩むためには常に賢明に、そして聡明に自身を保たなければならない。だからこそ、目の前のこと一つ一つに集中して、足元を一つずつ固めていくことが新社会人にとって大事だと思いました。今日は「満足感と空虚感が行き着く先」というテーマでお話しさせていただきました。

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