見出し画像

太宰治『列車』太宰作品感想12/31

10月中、続けるつもりでいた作品感想もかなり滞り始めた。月末には『斜陽』や『人間失格』など、中長編作品もご紹介していく予定なので、このあたりで何とか耐えて、連載を頑張っていきたいと思う。今日紹介する作品は『列車』である。

最近、太宰について書いてて思うのだが、作者の過去に即した私小説というのは、果たして文学作品と呼んでよいものだろうか。学問的にというよりニュアンスというか印象論なのだが、自然な文脈からは0から作り上げた創造作品という感じが全くしてこない。しかしこの自然さが、僕が太宰を好む理由でもある。例に漏れず、自然な文体で描かれた『列車』の内容は、1930年代にまで話が遡る。

「一九二五年からいままで、八年も経っているが、その間にこの列車は幾万人の愛情を引き裂いたことか。げんに私が此の列車のため、ひどくからい目に遭わされた。
 つい昨年の冬、汐田がテツさんを国元へ送りかえした時のことである。」

列車は色々なモノを運ぶ。燃料から鉄鋼でできた車体から人の想いに至るまで、様々に。

『列車』を要約すると、太宰が学生をしていて東京にいた時期の友人の男が田舎の女とかつて恋に落ちたが、田舎女がその友人に東京まで会いにきた頃には、友人の恋心は冷めてしまっていて、太宰が田舎女を国元へ送り返すという、なんとまあ「悲愴」なお話である。

太宰の友人は裕福で田舎女は貧乏であったので、昔話のテンプレート通り、周りからの反対があった。しかし田舎女はこの恋を成就すべく「悲壮」な覚悟で国元を立ち、列車に乗り込んで東京に舞い降りた。しかし、恋は図らずも実らず、帰りの列車の方は文字通り「悲愴」なものとなった。

一〇三号のその列車は、つめたい雨の中で黒煙を吐きつつ発車の時刻を待っていた。

雨は、悲愴感を増大させる。太宰は、田舎出身の妻となら気が合うと思い駅に妻を連れて行ったが、彼女たちは天候について二言三言話し合って終わった。列車は雨ですっかり濡れて、黝く光っていた。

 三輛目の三等客車の窓から、思い切り首をさしのべて五、六人の見送りの人たちへおろおろ会釈している蒼黒い顔がひとつ見えた。その頃日本では他の或る国と戦争を始めていたが、それに動員された兵士であろう。私は見るべからざるものを見たような気がして、窒息しそうに胸苦しくなった。

柳条湖事件に端を発した満州事変は、宣戦布告がなかったまでに事変と呼ばれたが、戦争と言って差し支えないほどに規模が拡大し、長期化した。満州については丁度、前回の記事で書いたので参考にして頂きたい。明るい側面を持たないこの作品には、列車の青黒い色感がよく似合う。


現代社会おいて人を遠くへ運んでくれる新幹線は、黒々とした昔の汽車のボディには似ても似つかない、美しい白色のボディを持っている。よく近くで見ると汚れていたりもするのだが、遠くから見ると、その白さに清潔感さえ覚える時がある。静岡県にある浜松駅の新幹線改札を抜けると、ヤマハのピアノが置かれている。YouTubeに、浜松駅での宇多田ヒカルの「First Love」の美しいピアノ演奏が投稿されていた。その演奏だけで、一つの小説のように美しく、感動を覚えたので歌詞の一部とともに以下に記載しておく。

【1900万円の浜松駅ピアノ】宇多田ヒカル First Love フルver

「立ち止まる時間が 動き出そうとしている 忘れたくないことばかり(作詞作曲:宇多田ヒカル)」




いいなと思ったら応援しよう!