太宰治『佳日』太宰作品感想17/31
介護福祉論の講義を受けながら、今この記事を書いている。講義中に他事をするのは良くない。僕もそう思う。でも僕はしっかり聞きながら書いているから、お説教は余計なお世話である。こんなこと書いてよいものかわからないが、高齢者福祉の講義は何だか気が重くなる。教室内の空気も、なんだか重苦しい。
『佳日』という作品は、面白おかしい作品として、また太宰の豊かな文才が発揮された作品として人気なようである。渡支(中国へ渡ること)していた友人の結婚のために太宰は奔放する。素直になれない人間というのは世の中に存在するが、太宰の友人のようなまでに無粋で不器用で素直になれない人間も少ない。
この作品には、裏のテーマがあるような気がする。それは、「頭髪の禿げ」である。僕は別に、ふざけているわけではない。太宰の友人は実際、頭髪の禿げに悩まされており、結婚相手に送る写真についても大変に悩ましく、実際に会って見ればもっと禿げあがっていたというのでは、先方との間を取り持った太宰のメンツにも関わる。幸い、友人の頭はそこまで後退していなかった(最近、自分も抜け毛が増えて来た。対策を考えてみたい。)。
本作と全然関係のないことについて書くが、僕は青春こそ人生という気がして、爺さん婆さんになってからは思い出に浸るばかりのような気がする。良い年の取り方というのは勿論あるのだが。若造の僕が何をつべこべ書いても仕方ない。何故こんなにも介護福祉の講義は重いのか。若者がこんなに一つの教室に集っているのに、血沸き肉躍るような雰囲気が微塵もない。当たり前か。
こういう気持ちのときには、何を書いてもだめだろう。本作の最後で、太宰の友人は涙を流しながら笑う。それは「嬉し泣き」というような、分かりやすい言葉で表現できるような涙ではない。悲しいときに泣き、嬉しいときに笑うことは、素直な人間のなせる業である。太宰の友人は先生の言葉を通じて、
と本作では解説されている。僕は、人が人として生きていくためには一種の仮面を被らねばならないと思っている。太宰の友人の不器用さは、人間が仮面を被らねば生きられないという真実を知らないところからよりも、上等な仮面を持っていながら、その上手な取り付け方を知らないところから来るものであると考える。