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太宰治『12月8日』太宰作品感想8/31

10月中、毎日投稿することに決めた太宰治の作品感想。第八回は、八という数字にちなんで『12月8日』をご紹介したいと思う。いつもに比べて。多少アカデミックな内容となることが想定されるが、どうぞ最後までお付き合いを頂ければ嬉しい。

1941年12月8日、日本はアメリカに真珠湾攻撃を仕掛けた。真珠湾攻撃の軍事的意味、外国による経済封鎖、裏の外交事情、陰謀云々…、様々な観点から考察がなされるかつての開戦であるが、文学の領域を担った者たちの言動に真摯に耳を傾けようとする現代人は、あまり多いとは言えない。

1941年12月8日が日本人にとって特別な日であったことは、まず間違いない。私は昨年、12月8日に纏わる発言を残している文豪たちの記録をまとめる作業を個人的に行った。そのいくつかを下にご紹介したい。

「いよいよはじまつたかと思った。何故か體ががくがくと慄へた。ばんざあいと大聲で叫びながら駆け出したいやうな衝動も受けた。」

『新美南吉全集』の日記より

「涙が流れた。言葉のいらない時が来た。必要ならば、僕の命も捧げねばならぬ。一兵たりとも、敵を我が国土に入れてはならぬ。」

坂口安吾『真珠』より

「志賀直哉や谷崎潤一郎といった大家からはじまって若い人まで全部、その解放感をちゃんと文章で言っています。(中略)それは猛烈な解放感でした。」

『吉本隆明が語る戦後55年』より ()内筆者編集

私が知っている有名どころの作家では、12月8日に比較的ケロリとしていたのは永井荷風くらいなもので、大半は興奮の色を見せたことに間違いはない。12月8日という日が持った特別な意味を日本人は忘れ去ろうとしている。僕自身の日本に対する問題意識は、開戦の12月8日と敗戦の8月15日に明確に集約されている。

さて、太宰の『12月8日』の話に戻そう。本作は、太宰の妻である美知子夫人が題材となっており、冒頭は以下のように始まる。

きょうの日記は特別に、ていねいに書いて置きましょう。昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。

先に断っておくが、太宰の言葉を額面通り素直に受け取っていいものかはわからない。逆説的に語るときにこそ、まさに物事の真髄を付いてた形となって読者の前現れて来る文章も少なくない。そう考えると、妻に語らせる体裁を取っているとはいえ、『12月8日』は素直すぎる表現が多いような気もする。夫人の美知子氏は、後に本作をこのように回想している。

「長女が生まれた昭和十六年(一九四一)の十二月八日に太平洋戦争が始まった。その朝、真珠湾攻撃のニュースを聞いて大多数の国民は、昭和のはじめから中国で一向はっきりしない○○事件とか○○事変というのが続いていて、じりじりする思いだったのが、これでカラリとした、解決への道がついた、と無知というか無邪気というか、そしてまたじつに気の短い愚かしい感想を抱いたのではないだろうか。その点では太宰も大衆の中の一人であったように思う。」

津島美知子『回想の太宰治』

この夫人の話は、「近代の超克」という、日本の学者たちによって行われた座談会において持たれた問題意識とそのまま直結する。この座談会では、ヨーロッパ近代への挑戦的言葉が飛び交ったが、中国をはじめとするアジア政策を語る言動は見られなかった。詳しくは、以下の文献を参考にされたし。

https://www.amazon.com//dp/4791764102




此度の文章は、まるで引用ばかりの文章になってしまった。今日はこの流れのままに、『12月8日』における太宰の言葉の引用で締めくくることにしよう。最後までお付き合い頂いた読者の皆様には感謝の気持ちでいっぱいである。昭和史家として名高い半藤一利さんは、「絶対」や「かならず」という言葉だけは、戦中の経験を通じて信じないことに決めたのだと言う。しかし僕は今一度、「かならず」と言う表現を用いた太宰の言葉に耳を傾けてみたいと思う。

主人も今朝は、七時ごろに起きて、朝ごはんも早くすませて、それから直ぐにお仕事。今月は、こまかいお仕事が、たくさんあるらしい。朝ごはんの時、
「日本は、本当に大丈夫でしょうか。」
 と私が思わず言ったら、
「大丈夫だから、やったんじゃないか。かならず勝ちます。」
 と、よそゆきの言葉でお答えになった。主人の言う事は、いつも嘘ばかりで、ちっともあてにならないけれど、でも此のあらたまった言葉一つは、固く信じようと思った。

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