見出し画像

なんて言ったらいいか…

 彼女と別れてから随分と経ったあるひに偶然ばったりと、しかも山奥の本当になんで居合わせてしまったのか分からない場所でばったりと出会ってしまって。その時は傷口を塞ぐようになんともない素振りで振る舞ったけれども、あっちの方は車をみて既に分かっていたみたいで、それとなく嫌な気持ちになる。その沈黙も実際は理解できる事で、何も言わないことが接点を作り出さないことに非常に有用に働く。
(これいつの日記なのかわからないけれど、併記してあったので残しておくことにしよう。雑多な方が面白いかもね。)

 同性愛というのが、ここ数年で大きくその趨勢を伸ばした事は、同性婚を認める認めない等、ニュースが取り沙汰される結果から見てもその需要増えてきているのだろうと思う。結婚という社会的な、且つ第三者とか仲介人を通して行われる契りというものが欲しいという人間は多いと思う。特に人間関係においては、キタニタツヤのずうっといっしょ!!歌のようなどこかしら独り占めしたい欲求があって、それの最たる例でもあると思う。一生そばにいてねという文言とその行為は非常に魅力的に見えるらしく、それが、異性間であれ同性間であれ起こりうるのだろうと思う。寂しさはそれでしっかり拭われるのだろうか。それとも、それでも寂しさが押し寄せてきてしまうのだろうか。人々の寂しさが縛ることを促すけれども、縛った結果として、その寂しさが拭えるのだろうかという疑問は残る。人はどのタイミングでその欲求の解消になるのか、あるいはそれに納得するのかということは、それこそ人それぞれという曖昧で便利な文言で締めくくられるべきだ。そんなのお前の胸に聞いてみろってんだ。

 LGBTQの問題は収束に向かっていっているように思われる。自由思想、自由主義を第一に掲げ、その最たる例の一つとして示された性の自由。これらを社会的にあるいは政治的に認めさせることを目的に運動は続けられていった。ある程度その進行によっていくつかの事例が現実のものとなったけれど、健常者の私の目から見れば、結局のところ性という概念、キーワードを用いて自己顕示欲や、社会的な承認欲求を行いたいだけの人が集まっているだけのように見える。非常に利己的で興味深いと感じた。
 もちろんこういう性の問題について非常に悩んでいる人がいることは頭では理解している。慮ることができるというだけで共感はできないのだけれど。これらの問題について理解しなければならない事は、性とは概念であり、レトリックであるということだ。男という事はどういうことか考えてみると、一般的なイメージがまとわり付いているわけだ。生活に支障を来たしてしまうほど、性というものに執着してしまう人こそ注目され適切な治療など、社会的に擁護していかなければならない人なのである。このようにこういうものに対して、異常に反応してしまう人のある種の生きづらさに介入すべきであって、自己顕示欲のために、あるいは利己的な物のために、その言葉たちは掲げられるべきではない。彼らはマイノリティであり、しかし社会から保障されているということなのだ。
 例えば、ある男性が自身の持つ男性というものに違和感を覚え、女性になりたいと懇願したとする。ここで問われているものは、生物学的な雌への転換を目的とはしていないはずなのだ。社会的にあるいは公共において求められている性の概念に当てはまる存在になりたいのか、あるいは雌として子供を授かり受ける存在になりたいのかということなのである。ここに性に低迷している男性の想像力の欠如と欲求の真相が不明瞭であることを見出すことができる。なぜならいわゆる雌としての本能である行為は不可能と言われており、どのように手術を施してもそのような存在にはなれない。諦めてもらうことしかできない。

 果たして、性とは社会的なステータスだ。だから簡単に体をいじって違う性になり変わることが推奨されるべきではない。性とは付き纏われる社会的イメージだ。決してその衣服の裏に見える雌雄が見透かされているわけではない。
 もう少し、彼らの体を大事にできるようになってほしい。たぶん、SNSとかによる見えすぎで彼ら自身、自分の思いに自信が持てないのだろうけれど。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集