いじめの傷痕。だから私は誰よりも優しく素直に強く生きていく。
幼稚園に通っていた時、私はいじめられていた。
持ち物を壊すように脅されたり
自分だけ仲間外れにされたりした。
鏡を見て
なんでこんなに醜いんだろう
と自分を見つめていたことがあった。
もっと可愛かったらよかったのだろうか。
身長が飛び抜けて高いのがダメだったのか。
違う。
私はなんというか、元から変で、ダメなやつなんだ。
私だけ逆上がりも跳び箱もできない。
やってみなって先生は言うけれど、違う、私はできないやつなんです。
一生私はダメなやつ。
とりあえず卒園したらこの環境からは出られる。
だから我慢。
ずっと我慢していればいい。
卒園する前に肺炎、その次にアデノウイルスで入院。
クリスマスを病院で過ごした。
入院する前、体調を崩してから嘔吐しない日はなかった。
嘔吐することが怖かったが
最終的に嘔吐することに慣れてしまった。
食べてもすぐに全て戻してしまう。
吐くのも下痢も辛いのも当たり前。
ずっと両親が看病してくれていたが、愛情を受け取れなかった。
愛情いっぱい育ててくれていたけど、愛されている感覚がなかった。
私はダメなやつだから。
入院した時は本当に私は死ぬんだって本気で思っていた。
生きる気力もなかった。
生きても小学校が楽しみだとか
なにが食べたいとか
どこへ行きたいとか
なにも欲求がなかった。
「来年から小学生だね、勉強机買おうか!」
なんて言われて選んだ大きくて
好きなキャラクターの下敷き付きの勉強机を早く使いたいとか
なにも思わなかった。
なんというか無だった。
「死にたい」
私はたったの6歳にしてそうつぶやいたことがある。
その時は死ぬことが怖くなかった。
ぼやっとした意識の中
「私死ぬの?」
ってお見舞いに来ていた父に聞いたことがある。
「死なないよ!大丈夫だよ!」
と父は答えた。
あ、死なないんだ。そっか。
今思えば人生の中で一番辛い時期だったかもしれない。
いじめられていた時にかかった「私なんて」病を治すのには
すごく時間がかかった。
いじめは悪だ。
私をいじめていた人が
なにも知らないような顔で幸せそうに過ごすのを
憎くて仕方ない時もあった。
許されないことをしておきながら平気な顔をしている。
あの時の辛さをあの人たちは知らない。
同じ辛さを味わえばいいのに。
なんて考えたことは何度もある。
現在はというと
いじめてきた人たちを許そうとは思わないけど、許さないとも思わない。
無関心。
どうでもいい。
間違いなく私を強く傷つけた人たちである。
でも私があの人たちを恨むことで得られるものはゼロ。
復讐していいわけないし
私と同じ気持ちを味合わせたことで私は満足するのか?
いやしない。
そんなことを考えている時間がもったいないのだ。
いじめられた上に、あの人たちを恨むために時間を割くなんて
どれだけあの人たちに奪われれば気が済むんだ。
私はもうこれ以上あの人たちのために自分の人生を無駄にしたくない。
あの人たちになくて私にあるもの
それはいじめられる人の気持ち。
人はみんな違うから気持ちや感じ方が同じだとは思わないけれど
それでも傷つけられる気持ちを知っている。
だから私は優しい。
辛さに共感できるのは私の長所だと思っているし
共感することで癒してあげられることもある。
辛さを知っている人は誰よりも優しく強くいられる。
私は誰よりも優しく強くなれた。
いじめられていた時のことを思い出しながら書いたので
途中途中涙を堪えられませんでしたが
これも私の人生の一つです。
いじめっこを恨むことはこれからもしません。
私は私のために傷つけられた経験さえも活かして強く生きていきたいです。
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