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平尾昌宏『日本語からの哲学』にて

なぜ〈です・ます〉で論文を書いてはならないのか?

日本の人文学は、この問いに、いまだ、答えられない。とくに、哲学の分野では、欧米の哲学を輸入するばかりで、日本語による哲学が弱いのだ。

日本語の共同体は、自国語の哲学で、自立する意思がないのか。

言葉は単に観念的なものでもなければ、語り手が自由にコントロールできるものでもない。我々は言葉を単なる道具として自ら生みだしたのではなく、言葉の中に生きるのである。繰り返すが、確かに〈です・ます体〉あるいは〈である体〉のいずれを用いるかには選択を働かせることはできるが、いったん文体を選択したなら、我々はそこにある原理に従わざるを得ない。しかも、それによって現出する世界とそれに対峙する語り手が異なる以上、そこで語られる内容までをも文体が規定することはないとしても、その語り方には必然的に制約が課されることになるだろう。

――p.186第13章

〈である体〉と〈です・ます体〉のどちらで文章を書くことにするのか。

〈である体〉と〈です・ます体〉が、それぞれ「著者の一人称が三人称の対象を記述する」文体と「著者の一人称が二人称の相手に語りかける」文体であったのに応じて、〈である原理〉は二人称のあなたを取り除く働きをし、逆に〈です・ます原理〉はあなたを前提とする。その結果、〈である世界〉は「一人称と三人称の関係による世界」であり、〈です・ます世界〉は「一人称と二人称の関係を中心とする世界」である。同じことだが、言い換えれば、〈である世界〉はあなたのいない世界、〈です・ます世界〉はあなたのいる世界なのである。

――p.202第14章

その選択が、書き手の言語意識を特有な世界観に従属させるのだ。

極端に言えば、〈である体〉の主観的な用法〈である体A〉が独りよがりになるばかりではなく、その客観的な用法〈である体B〉も、既に確立された一人称複数「我々」を前提としており、個人的な主観の表出でこそないものの、集団主観的なものであり、いわば「我々よがり」ともなり得る。一般の読者から見て専門的な学術論文が独特の閉鎖的な世界を示しているかのように見えるのもこのためである。「専門バカ」という揶揄が生まれてくるのも、科学者集団、専門家集団を前提とする〈である体〉の現出させる〈である世界〉が、いわば「閉じている」からである。
それに対して〈です・ます体〉によって現れてくる〈です・ます世界〉は、いわば「開かれた」ものとなっていると見ることができる。だが、それは同時に、〈です・ます世界〉が、不確定で流動的なものとなってしまっていることと表裏であると言うこともできる。

――p.203第14章

日本初の哲学書、西田幾多郎『善の研究』の刊行が、1911年です。日本語による哲学は、始まってから、まだ、100年程度しか経っていません。

以上、言語学的制約から自由になるために。