今回の記事は、過去の記事「西田幾多郎『善の研究』のスピリチュアルな読み方」の追記です。第一編の第二章「思惟」を取り出します。
西洋哲学は矛盾を避ける傾向にあります。それが正しいのではありません。ただ、男性性(矛)と女性性(盾)の和合ができずにいるのです。
ところが、西田幾多郎は『善の研究』で矛盾を許しています。
これから28年後に発表された『絶対矛盾的自己同一』は、男性の内にも女性性があり、女性の内にも男性性があることを、許せる概念です。
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さて、ウィリアム・ジェームズが「純粋経験」を西田幾多郎よりも前から説いています。しかし、その考え方は、両者で逆方向です。
その考え方の違いは、言語意識によって生じる、と私は思います。
日本語は状況から主体へと流れる意識を優先しますが、
英語は主体から状況へと流れる意識を優先します。
だから、ジェームズにとっては、個人的で特殊的なものから普遍的で一般的なものへと考えた方が、言語化しやすかったのではないでしょうか。
以上、言語学的制約から自由になるために。