南朝正副二統皇位継承論に徹する!
(1)吉野朝の正体は擬朝だった!
南朝史学会の藤原石山氏は、「南朝には正副二統の天皇が存在し、吉野朝の天皇は南朝の擬朝(副統)であり、後醍醐天皇の正統を継承した守永親王の身代わりの天皇であったと見るのが正しいものと考える」として下記のように述べています。
(2)『神皇正統記』の擬装を読み解く!
上記の「南朝正副二統皇位継承論」に徹し、吉野朝は陽動作戦による南朝の前衛であり擬朝であるとして南北朝時代史を読む解くと、これまでモヤモヤしていた事項が、霧が晴れた様にスッキリとして参ります。
面白い事に、『ウィキペディア』神皇正統記に下記の様に書かれています。
この点に関し私は、神皇正統の天皇を守る為に、義良親王が後醍醐天皇の皇位継承者であるかの如く擬装する為に書かれた「擬装書」だと主張します。
下記は『神皇正統記』の一節ですが「全て敵方を騙す為に書かれた擬装書」であるという視点に徹して解釈するのです。
蛇足ながら初心者の為に付け加えるなら、上記のような内容の書物がある事こそが、義良親王が守永親王の影武者である証拠だと見抜かねばならないのです。
【参照】後村上院(義良)午年皇子説立証の神風串呂(№186)
「王院山」-「大馬木川」-「美女原」-「釜村」-「大忠」-「南山方」-「後村上天王御陵」-「後醍醐天皇御陵」
(3)『太平記』の擬装を読み解く!
『太平記』(巻17-8)にも、下記のように皇太子恒良親王が皇位を継承したように擬装されています。
皇太子恒良親王が皇位継承者でなかったことは既に考察済みです。
【参照】北陸朝廷3、北陸朝廷の天皇は誰だったのか(№19)
『太平記』巻21-4「先帝崩御事」の後醍醐天皇の御遺勅「第七の宮を天子の位に即け奉りて」や「先帝崩御の刻、遺勅を遺され、第七の宮を御位に即け進せ、朝敵追伐の御本意を遂げらるべし」についても同様です。
擬装ですから、わざと紛らわしい表現にしてあると見るのです。「第七の宮は義良親王」でよいのです。「第七の宮」が誰であるかを争う必要はないという事です。
延元4年8月15日の後醍醐天皇の綸旨「陸奥親王に御譲国し了ぬ」(五条文書)についても同様です。「陸奥親王は義良親王」でよいのです。陸奥親王が誰であるかを争う必要はないという事です。
(4)後醍醐天皇の神霊かく語りき!
三浦芳聖は、『神風串呂解明』(昭和40年7月24日発行、通算125号)で、下記のように述べています。ここにも「擬装」が語られています。
後醍醐天皇は、延元元年10月9日、叡山に於て皇太子恒良親王に譲位したかのように擬装して尊良親王に譲位し、足利尊氏に騙されたかのように擬装して、偽器を用意して京都へ還幸されたと語られたと云うのです。
南北朝時代は、戦乱の世で、擬装、擬装の時代だったのです!だからこそ、神皇正統家の皇孫は今日まで続いているのです。
書物や文書はいくらでも擬装出来るので、串呂主宰神(天照大御神を始めとする日本神界)が、神風串呂を重要視される所以であります。
(5)小松天皇の神風串呂
神皇正統第98代・小松天皇の神風串呂は下記をご覧下さい。
前号(№190) 次号(№192)
情報拡散のお願い
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串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。
神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!
一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。
神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。
(出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。)
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