安藤直樹シリーズを読んだよ②
鵼の解体ショーに付き合ったり、キタカミの地を縦横無尽に駆け回ったり、あとなんか普通にダラダラしてたら更新が遅くなりました。仕方ない。というかなんでキタカミ地方ではそこら辺の田んぼにハサミギロチン打ってくるザリガニがいるんですか。こわすぎるでしょ。試される大地じゃん。
閑話休題。続きものである本記事では『とらわれびと』『記号を喰う魔女』『学園祭の夜』『透明人間』の4作についての所感を書きます。ちなみに、ヘッダーに『とらわれびと』と『記号を喰う魔女』しか映ってないのは、電子書籍を使ってない時期に集められたのが5作めまでだったからですねー。なので『学園祭の夜』と『透明人間』はkindleで読んでます。まぁそれによって読書体験に変化があるかというとそんなこともないので以上は余談です。では本題へ。
浦賀和宏『とらわれびと』
あぁ金田くん、おいたわしや……。かつての名探偵気取りは、安藤クンに殴られて、自分の周りの人間も、自身の人生もずたずたにされて、ついに狂ってしまいました。ぼくは『記憶の果て』の金田くんのことが結構好きだったんですけどね。理屈ばって皮肉げで。まぁ、こうなっちゃっからにはもう……ネ……。
それにしても『とらわれびと』は変なミステリです。そもそも安藤直樹シリーズ自体がミステリを(ミステリを読んでる人間のことを)小馬鹿にしているようなポーズを取っているので、まぁこれくらいの変なことはするだろうと納得はするのですが。
『とらわれびと』は、精巧なところは本当に精巧なんですが、雑なところはめちゃくちゃ雑です。手続きの質にムラがある。しかもそれをわざとやっている。これだけ精緻な構造物を作っておきながら、その全貌を読者に提示する手順が無茶苦茶で、真相を推理させる気がない。しかもシリーズの重要だったはずの謎がマジでどうでも良さそうな感じで唐突に明かされるし。作品構造の美しさは文句なしに素晴らしいのに、ハナから推理小説を好んで読む奴らのほうなんか向いていない。そこが本作の変な点であり、ミステリとして瑕疵となり得る点です。しかしながら、大変困ったことに、この変なところこそが、本作の美点でもあるのです。「推理小説なんてくだんねぇよ。ぼくはわたしは傷ついて苦しんでんだよ。どうでもいいわカス」と言わんばかりの、この繊細でありながら太々しい居直り具合は、間違いなくこのシリーズの味でしょう。ぼくはだいすき。
浦賀和宏『記号を喰う魔女』
ドロドロ人間関係のうら若き男女が孤島に集められ、お手軽地獄製造機みたいな舞台のなかで、殺したり殺されたり食ったり食われたりする話。なんか作中人物である小林くんの作中作っぽい雰囲気を醸し出しており、いままでのシリーズ作品と比べて、持って回ったような言い回しやら、小難しくて気取ったような情景描写やらが露骨に多いです。正直読みづらい。
とはいえ本作は紛れもなく浦賀和宏の作品らしいエグみを多分に含んでいます。狂っていたり明らかに目が血走ってたり暴力的だったりする登場人物しかいません。彼らも最初はそんな感じなかったのかもしれませんが、物語が始まる時点で色々と詰んでいるため、既にほぼ皆どこかしらブレーキがイかれており、物語が終わったころには全員イかれています。ひどすぎる。あと、作中で開帳される思想が強火すぎて普通に引く。ゴリッゴリの優生思想やんけ。
浦賀和宏『学園祭の夜』
安藤直樹……お前ついにそんなことまでするようになっちまったのか、となりました。お前ミステリの登場人物じゃねぇんだからさ、あんなにミステリのこと馬鹿にしてたのによ。物事に傷つく繊細さがあったというのによ。
この作品は物理的にかなり薄いので、すごく多くのことが起こっている訳ではなく、先の展開への前準備的な意味合いが強かったです。ゆえにあまり語ることがない。安藤クンがまじでひどいくらい。問題はその“先の展開”がもう望めないことでですね……続編のHEAVENとHELLで話にケリついてたりするんですかね……。
浦賀和宏『透明人間』
本作は、安藤直樹シリーズでありながらこの作品だけで独立しているような立ち位置の作品ではあります。安藤くんも飯島も端役といえば端役だし。ですが本作の試み、あるいは本作が目指した到達点は、間違いなく安藤直樹シリーズの流れを汲んだ、ある意味シリーズの総決算のようなものになっているのだと思います。その試みとは即ち、ある個人の信じた、他の誰にも理解されない“現実”が、現実世界を上書きすること、です。
『記憶の果て』において、安藤直樹は推理小説の探偵に怒ります。自分の内心に土足で踏み入り、真実で心をズタズタにしようとする“名探偵”の登場なぞ、彼はハナから願い下げでした。『頭蓋骨の中の楽園』で笑わない名探偵は言いました。「壊れてしまえば、いいんだ」 ──頭蓋骨の中の楽園に安住してしまえば、現実世界の“真相”も“解決”もすべて絵空事です。例えば『学園祭の夜』では、安藤直樹は個人の身勝手な思惑のために、現実の人間を道具として利用してしまいます。
では、『透明人間』はどんな話なのか。物語の長大さの割に、この作品の趣向はシンプルです。これまで書いてきた内容を読めば、人によっては作品を読まなくても趣向に勘づいてしまうかもしれません。その趣向は、あるいは後年のミステリによって何度も変奏されているものでしょう。なんたって本作は20年も前の作品なのですから。
では本作は手垢のついただけの、見処に乏しい作品なのでしょうか。けしてそうではない。本作が(あるいは安藤直樹シリーズが)持っている大きな武器があります。それは登場人物の切実さだと、ぼくは考えます。
本作のほとんどは主人公の理美が苦しみ、思い悩む場面で構成されています。本作は、理不尽な世界に対して行き場のない怒りを抱きながら、それを発散する術も持たずに、はち切れんばかりの悪感情を抱えたままの女が、ひたすら辛く苦しい目に巻き込まれながらながら希死念慮を募らせ続ける話、と言い換えることもできるでしょう。彼女は逃げ場のない現実に苛まれ続け、ここではない脱出口を探し続けています。
そんな彼女が苦しみの果てに思い至った“真相”は、安藤直樹が語るそれとはまったく違うものでした。それは、大真面目に語ってしまえば笑い者になるような絵空事。すすきの穂を見て幽霊だと言い張るような法螺話。
しかしその“真相”は、他のどんな真相より彼女を納得させることができるものでした。自分の人生を賭けられるような、あるいはその真相自体が人生の意味となってしまうようなものでした。だから彼女は、その“真相”を“真実”と選んだのでしょう。そこには彼女の信念がある。積木を重ねてできた確からしい説明にはけして置換できない“彼”が、そこにいる。その実感が、切実さが、読者への説得力が、本作を傑作の域に押し上げていると、ぼくは思うのです。