『平家物語 犬王の巻』と『犬王』のはなし

「そういうときは譬え話だ。数学者と文学者を、無人島にそれぞれ住まわせる実験があったとしよう。二つの島は同じ面積で、同じ問題をかかえ、同じアイテムがあり、同じ方法で脱出できるように設定してある。だがそのとき二人は、まったく違った行動パターンをとるだろう。脱出方法さえ違ったものになるかもしれない。職業が異なる以上、二人の行動原理に共通項がないからだ。そのパターンの違いが、差異だ」

『ダンガンロンパ十神(下) 十神の名にかけて』

 前置きから。

 筆者は数ヶ月前に『平家物語 犬王の巻』を読みまして、「なんだこの超絶傑作小説は」ともんどり打ち、『犬王』は絶対観に行こうと心に決めておりました。んでんで1週間くらい前に行っていたのですよ。いやー素晴らしかった……で終わるのも味気ないので、ふたつの物語のおもろかったところと、ふたつの作品のズレ(主に、結末の迎えかた、および友魚の在りかた)について、整理も兼ねて言語化しておこうかとおもいます。当然のように『平家物語 犬王の巻』および『犬王』のネタバレを含みますので、ご了承ください。 

◆◆◆

『平家物語 犬王の巻』のあらましと結末

 まず、物語は以下の文章からはじまります。

 さて前口上から。
 あらゆる物語には続きがある。たとえば続篇があり、たとえば異聞がある。どうしてそんなものが生まれてしまうのだろうか。一つには、物語は語られては消え、語られては消え、読まれては忘れられるからだと言える。
 なれども、それだけでは単に儚いではないか。
 そのために続きがやってくる。

『平家物語 犬王の巻』

 正直なところ、この書き出しで物語を始められた時点で小説としてすでに“勝って”いるだろうと思いますし、事実、この小説はこの先もずっとおもしろくなり続けます。
 主役はふたり。平家の遺産を求めた者のせいで光を喪った海人の子と、平家の物語を求めた者のせいで人の容貌を喪った能楽師の子。海人の子は琵琶法師となり、能楽師の子と数奇な出会いを果たす。そしてふたりの異端児──友魚と犬王──は、喪われていた平家の物語を作品とすることで、能楽のメインストリームに大きな旋風を起こしていく。友魚は友一、友有と名を変え、琵琶法師として独自の地位を築く。犬王は新たな作品を演じるたびに、自らに憑いた平家の亡霊を祓い、人としての姿を取り戻していく。その様子が、狂気すら感じさせるグルーヴを伴って、疾走感溢れる文体に乗せて描かれるのですから堪りません。
 と、途中の物語について語り明かしていたらきりがないので、このnoteの本題となる物語の結末について語ります。
 極めつけの作品である「竜中将」を終え、自らに憑いた平家の霊を成仏させきった犬王は、人としての容貌を完全に取り戻します。そして彼は、時の将軍である足利義満に認められ、大夫の座に預かります。
 一方で、義満は犬王に告げるのです。「『平家物語』の正本以外の平家の物語を演じるな」それは将軍としての地位を磐石にするための策でした。また、義満は『平家物語』でない平家を語る者たちを弾劾します。──友有もまた、犬王によって作られた異聞を語るひとりでした。
 異聞を語り続けることを選んだ友有は処刑されます。死の寸前に、彼は叫びました。自分の父と視力を喪った原因となった足利への怨みを。友魚として。

 引致されていって、その果て、友有は賀茂の河原にて斬られるのだが、その前に、この二つめの御前からひき剝がされる前に、琵琶の絃を切られる前に、こう叫んでいる。友有はこう叫んでいる。初代の将軍──足利尊氏──に向かって。「我、ただの賤の者に非ず。──非ず!」と。
 そして続けた。
「我が名は、五百友魚。イオの──トモナ!」
 友有が友魚と言った。
 名乗った。

『平家物語 犬王の巻』

 その5年後、犬王も亡くなります。そして彼は、成仏の間際、大切な友である友魚を迎えにゆくことを暗示します。

 往生の前に、少し待って、と言った。
「俺は、ちょっと尊氏殿の墓に、寄ってくる」と申し出た。犬王は死にながら阿弥陀仏に申し出た。「そこに、あいつがいるんだよ。成仏できずに、まだ、いるんだよ。縛られて。あいつが、盲いた友有が。いや、友一が。いや、友魚が。

『平家物語 犬王の巻』

 こうして、物語は終わりました。ぼくはこの終幕に、感慨とともに少しのかなしみを感じたのを覚えています。かなしみの理由はふたつ。
 ひとつは、時の権力者の意向や、その他のさまざまな理由によって喪われることです。しかし、この物語にはそのかなしみを乗り越えんとする意志が詰まっています。というか、この物語の存在そのものがその意志でしょう。さきほど引用した、物語の書き出しを思い返すとよくわかります。
 もうひとつのかなしみは、友有がさいごに友魚と名乗ったことにあります。彼は、父を死に追いやり、母を憎悪に駆り立て、自らの光を奪った足利を赦してはいなかった。友有として犬王と過ごした日々は、その怨みを腹の底に収めることはできなかった。だけど、犬王は友魚が怨みを残していることを知っていたし、だから足利の墓へと友魚に逢いに行くのです。ですがやはり、初読時は、友有としての生は無駄だったのかと、途方に暮れるような感覚を覚えてしまったのです。
 さて、友魚は犬王に逢えたのでしょうか。ふたりは、どのような言葉を交わしたのでしょうか。『平家物語 犬王の巻』は、それらのすべてを読者の創造に委ねて幕を引きます。
 そして続きがやってくる。

◆◆◆

『犬王』のあらましと結末


 当然といえば当然ですが、さきほど紹介した『平家物語 犬王の巻』と『犬王』の物語の進行には、ほとんど差異がありません。
 友魚の琵琶による語りが完全にストリートのロックミュージシャンの演奏であることや、犬王の作品がどう考えてもミュージカルの演出であることは、一見すると面食らうかもしれませんが、作品の根幹に関わることではないでしょう。
 同様に、犬王はなぜこのような姿なのか、彼に平家の亡霊が憑いているのはなぜなのか、という、原作ではすぐに明かされる謎を伏せている形式をとっていることも、作品の性質を歪めるものではない。
 しかし、ふたつの物語には無視できないちがいがあります。それは、友魚という人の性格と行動のちがい。そのちがいが、『犬王』という作品を原作と数センチほどずれた地点へと着地させているのです。
 前述したように、『平家物語 犬王の巻』で友魚を突き動かすのは、“五百友魚”という名への誇りと、自身と父母をどん底に叩き落とした者への怒りです。その感情と、犬王とともに作り上げてきた物語を勝手に禁じた、自分からすべてを奪っていく“足利”への憎悪が、渾然一体となって彼を駆動している。
 では、『犬王』ではどうなのか。もちろんスタートは変わりません。彼の傍には父の亡霊が寄り添い、彼の頭では母の怨み節が鳴っている。
 その後も、物語の進行は大きく逸脱しません。しかしすでに、原作といくぶん様子がちがうのではないかと思わせる兆しが、いくつか垣間みえるのです。
 たとえば、友魚と犬王の出会い。友魚が披露してみせた軽やかな琵琶の演奏。余談ですが、ぼくはこのときの演奏が本編中のどの演奏よりもすきです。
 たとえば、宴会を抜け出して行われる友魚と犬王の語らい。このときに、友魚は犬王に「自分は友有と名を改める」と告げます。友有という名の由来とともに。その由来というのは、『平家物語 犬王の巻』では語られないものです。
 そして分岐点が訪れます。物語も佳境、「竜中将」の披露です。故あって、亡霊を祓いきり、自らの人としての顔を取り戻さなければ、斬首されることになるという状況で、犬王は舞台に臨みます。ただし彼は、舞台に上がる前に、琵琶法師とともに「竜中将」を演ずるという条件をつけます。もちろん、琵琶法師とは友魚──もとい友有です。ちなみに、原作では、犬王は友有を伴わずに「竜中将」を演じています。
 圧巻の演技の末に、「竜中将」も佳境に入るのですが、犬王の容貌が戻る様子はありません。琵琶を掻き鳴らしながら友有は言います。「まだ拾っていない物語がある」彼は演奏に集中しながらより深いところに潜っていきます。その物語とは。
 物語を探すなかで、友有はある物語に出会います。それは自分のルーツ。父が死に、光を喪ったとき。彼らが身に付けていた足利の家紋。彼はその“物語”をみつけひとりごちます。「俺の物語はいい 犬王の話を」と。断言しますが、この科白は『平家物語 犬王の巻』の友魚からは絶対に出てこないであろう科白です。ぼくはそう考えています。
 やがて友魚は犬王の過去を、真実を、物語を発見します。『犬王の巻』のさいごの物語である、犬王自身の物語が発見されたことで、犬王が纏った呪は祓われ、犬王は人間の肉体を完全に取り戻し、「竜中将」の幕が閉じます。大団円、といって差し支えないでしょう。
 しかし、当然ながら物語は終わりません。これから、『平家物語』以外の平家は喪われ、犬王は自作を封印し、異聞を騙る琵琶法師どもは処刑されます。その琵琶法師とはもちろん友有です。
 そしてここにも原作とのちがいがあります。ひとつは犬王が自作を封じた経緯。もうひとつは友有の死に際の一言。
 犬王は、義満に相対し、直接脅しを受けました。お前が『平家物語』以外の平家を演ずるというのであれば、琵琶法師どもの死体が転がることになる、と。その言を受けた犬王は、義満に張り付いたような笑みをみせて、自作を封じました。
 友有は、『犬王の巻』を語り続けました。首をはねられる間際まで。そして、彼は最期にこう言い放ちます。「我が名は 所詮 イオのトモナ」
 この科白は、一見、原作の科白と変わりません。が、よく考えてください。実際には、この科白が意味するところは、原作とまったくの真逆なのです。『平家物語 犬王の巻』の友魚の叫びが、一族の誇りと足利への怨みからくるものとするならば、『犬王』の友魚の言葉はなんでしょうか。ぼくにはこの科白が、友魚が友有であり続けられなかった無念とかなしみから放たれたものだとしか思えません。最初に劇場で「所詮」と耳にしたときは聞き間違いを疑いました。『平家物語 犬王の巻』の友魚は友魚であることを選んで終わった。対して『犬王』の友魚は、友有であり続けられなかったことを悔やんで終わった。このちがいはどこからくるのか。
 犬王との友情と、世界に自分の存在意義を問う意志が、足利への──ひいては世界への憎悪を上回ったから、と結論づけることしか、ぼくにはできませんでした。もっというと、小説を映画に置き換えるときに、「そちらのほうが適している」という結論になり、そう変わったと考えるしかない。
 この先も、原作とはちがう続きが待っています。友魚として死に、亡霊となった友魚は、足利の墓へと向かわず、600年もの間現世をさまよいます。そして彼は犬王と出会う。犬王は言う。「名前を変えたから見つからなかった」。そう、『犬王』における犬王は、友魚が“友有”の名を捨てるなんてこれっぽっちも思っていなかった。そして、ふたりは初めて出会ったときのように、たのしそうにセッションをしながら往生するのです。
 『犬王』を観終えたときはぼくは最初にこう思いました。「これは二次創作だ」と。『平家物語 犬王の巻』という、五百友魚という亡霊を取り残した作品を、やさしく終わらせるための二次操作だ、と。
 さて困った。ぼくはこのふたつの作品に対して、優劣をつけることができなくなりました。このふたつの作品は、どちらかを採るともうひとつの解釈を切り落としてしまう。世界の残酷さと憎悪をこれでもかとさらけ出した『平家物語 犬王の巻』、その先にささやかな救いをみつけた『犬王』。その両方に美点があり、ふたつとも簡単に物差しを当てさせてくれない。ぼくの好みだけでいうとやや前者がすきかな、くらいのことは言えるのですが、正直そのときどきによってもう一方に転じるレベルです。そうなってしまいました。

あとがたり


 長々と書いて結論が、「どっちもいいよね!」なのはどうなんだいという感じではありますが、もっとも触れておきたかった、友魚=友一=友有がそれぞれの作品で何を選んだか、という話には触れられたので、満足はしています。
 最後に、ふたつの作品の関係について端的に評してみせた、『平家物語 犬王の巻』の作者・古川日出夫さんのインタビューを引いて、締め括りとします。

──古川さんも、作品に何かをもたらせたという実感ありますか。
古川「いや、ないよ(笑)。『血がつながっているはずなんだけど、他人みたいな人がいる』みたいな感覚で、それがすごく面白い。僕は血がつながっているから誰かが偉いとか、血がつながっているから守らないといけないという考えが大嫌いで。むしろ血がつながってないのに子どもみたいとか兄貴みたいっていうほうが好きだから、なんかそういう良い関係の他人になれたなって感動している」

https://numero.jp/interview314/

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