![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/156274393/rectangle_large_type_2_226d5d7b83dcf86622a30a7cf92091ef.jpeg?width=1200)
亡霊という言葉の特殊な用法
「そこまでは知らんけど、ま、気をつけろ」
「だからなんにだよ」
「亡霊にだよ。相手が人ならワンツーからのコンビネーションを決めることもできるだろうけど、亡霊相手じゃ分が悪いだろ?」
「……冗談だよな?」
「もちろん」
※本記事は、《死亡遊戯は飯を食う。》1~6巻のネタバレを含みます。未読のかたはご注意ください。
幽霊、あるいは亡霊。これらは現世に残された死者の怨念のことを表します。けれど「亡霊」という言葉には、ときに比喩的な意味が伴うらしく……。実体がないにもかかわらず、現実世界に影響を与える存在。いるのにいないもの。人はそういうもののことも亡霊と呼ぶ、そうです。
鵜飼有志『死亡遊戯は飯を食う。』はデスゲームを題材に取ったライトノベルのシリーズです。本シリーズの主人公である〈幽鬼〉は、その二つ名が示すように、作中ではよく“幽霊”と評されます。この評はまさに比喩的な、先ほど述べたような「亡霊」的な意味を有してのものでしょう。では、なぜ〈幽鬼〉は“幽霊”と呼ばれるのか。
〈幽鬼〉は、捉えようのない人間です。『死亡遊戯で飯を食う。』で最初に描かれる物語である〈ゴーストハウス〉で、その特徴は顕著です。デスゲームの先輩である〈幽鬼〉は、ほかの参加者を罠に掛けるでもなければ、かといって積極的に先陣を切るわけでもない。消極的協力の姿勢をとり続け、しかし参加者を殺すことは躊躇わない。それでいて、ゲーム後には自分が殺した人間に黙祷し、ゲームの反省に没頭する。まるでデスゲームの生存に特化したような彼女の姿からは、彼女自身のパーソナリティが見えない。
彼女の人となりがわかってくるのは、この巻の後半にあたる物語〈キャンドルウッズ〉です。
〈キャンドルウッズ〉での殺し合いにおいて、ゲームの趣旨に沿わない殺人鬼〈伽羅〉に、お前は社会生活に馴染めなくてデスゲームの世界に逃げてきたんだろう、と挑発を受けます。おそらくこれは図星です。しかし〈幽鬼〉はこの挑発に揺らいで“心に弱みを持ったまま戦”わないために、自分は師匠である〈白士〉の後を継ぐのだと、自身に発破をかけるように言ってみせます。そして〈幽鬼〉は、自分の片眼への傷と引き換えにして、〈伽羅〉を殺してみせました。
では、この〈幽鬼〉の宣言は本心なのか。答えは、そうであって、しかしそうではない、と自分は思います。この目標は〈伽羅〉に勝つための自己暗示です。〈幽鬼〉は、それまで“なんとなく”でゲームに参加し、片手で数えられないくらいの人を殺してきました。その行動原理は言語化に窮する、強いて言えば「惰性」としか言いようのないもの。その空虚な中心を後付けで説明したものが〈白士〉の目標を継ぐという宣言であり、そこには相変わらず空洞があるのです。中身がないのに、即興で思いついた理由を自身の中心にあてがってしまい、その後付けの理由を固持して、自身が空っぽではないという意地を張り続ける不思議な人間が、〈幽鬼〉なのです。
このシリーズの2巻を読んで思ったことがあります。それは、感情的になった人間は負けて死ぬということ。デスゲームのルールや駆け引き以前に、デスゲームの場では、自身が抱えた葛藤や矜持、躊躇いなどの感情は、それがプラスであれマイナスであれ、弱点と転化しかねないのです。自身が物語の中心であるかのような思い込みは、デスゲームに臨むうえで雑念でしかない。ただ雑念を押し殺し、自身をデスゲームに最適化させた、〈幽鬼〉のような人間こそが、ゲームの勝者となれる。
ですが、“幽霊”たる〈幽鬼〉にも揺らぎはあります。特に、4巻と5巻において、その揺らぎは顕在化します。
4巻では、〈幽鬼〉の、傷を負った片眼の視力が失われかけていることが、ひとつ問題となります。傷による自身の弱体化、それによる死への諦念じみた感情が〈幽鬼〉に生じるのです。しかし、この葛藤もまた、乗り越えられます。〈ハロウィンナイト〉というゲームでの、〈紫苑〉というプレーヤーとの戦闘によって。
〈紫苑〉は、〈幽鬼〉のように確たる中心なくデスゲームの世界に来、〈伽羅〉のように殺戮を行う人間でした。おそらくそれは未来の自分の姿である、と〈幽鬼〉は直観します。そのうえで彼女は〈紫苑〉と戦うのですが、その際の彼女のモノローグはとても印象的です。
刺青のプレイヤー、紫苑。なぜ大量殺戮をはたらき、いかにして死の縁に追い詰められ、なにを思って幽鬼にそんな忠告をしたのか、具体的な事情は知らない。だが、その顔を見ればだいたいのことはわかった。彼女は、人生をやった(注 : 傍点)のだ。なにかしらの心に抱くものがあって、表現して、それにより生じた責任を自分自身で受け止める。その一連の流れに、自分は立ち合ったのだろうと理解できた。
目の前に鏡が置かれているかのような錯覚を、幽鬼は覚えた。
鏡は、未来を映している。このままゲームを続ければ、いずれ幽鬼はああなる。信念の矢のすべてがどこにも命中せず、地面に這いつくばり、肉体的にも精神的にもことごとく打ちのめされて破滅する。
それを見せつけられて、ひとつの感想を幽鬼は抱いた。
その感想を、口からこぼれさせた。
「望むところだ」
この独白と、それに続く〈幽鬼〉の科白を読んで、ぼくは震えました。そして、場当たりで掲げた目的が、これほどに確とした覚悟にまでなっていることに、すこしの戦慄を覚えました。一切擁護しようのないひとごろしの言葉が、抜き身の刀のように鋭く、美しい。
続いての5巻で〈幽鬼〉に訪れる出来事は、弟子の殺害です。彼女の弟子であった〈玉藻〉は、〈幽鬼〉が負けていれば、死ぬはずのない人間だった。自分は、ひとりの人間を育て、情を移し、そしてその人を殺してしまった。我が身で撒いた種で苦しみ、自家撞着を起こした〈幽鬼〉の罪悪感は膨れ上がり、自我は分裂します。
そして続く6巻、〈幽鬼〉はこの、分裂した自身を、デスゲームという枠組みの中で殺してしまいます。本当に意味がわかりません。かつて自身の感情を後付けし、空っぽな自分に辻褄合わせをしたときのように、自身の罪悪感も自分の中のルールで縛って、辻褄合わせを終えてしまえば、なかったことになる。そうして、葛藤を捨て去り、デスゲームの幽霊はさらにデスゲームに特化していく。
はたして、この最適化の果てに何があるのでしょう。何もありません。ただ、クリアしたゲームの数が増えて、目標の達成に近づくのみ。ゲームクリアで貰える金銭的報酬なんて、物語開始時点で、彼女にとって何の価値もありませんし。でも、そもそも〈幽鬼〉の目標だって、当人以外には何の価値もないんです。彼女は、目標を達成した先のことなんて、きっと考えていないでしょう。
では、もしそのときがきたら、この幽霊は何になっているんでしょうね?