メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』書評
授業で『フランケンシュタイン』を読んで、レポートとして短い書評を書いたので共有しておきます。内容としてはクィア批評で、まぁ要するに「これめっちゃBLじゃん…」という思いをアカデミックに書き直すとこうなる、という見本だと思ってください。
読んだ版は図書館で借りた光文社古典新訳文庫だけど、ゴシックロマンの空気感があると聞いて、安かったので創元推理文庫の電子版も後から購入しました。そのうち読んでみます。
ゴシック小説の系譜において、吸血鬼ドラキュラに並ぶ大衆的なイメージを共有しているフランケンシュタインは、しかしながら本来怪物ではなく怪物を創った科学者を指す名前であり、また怪物の造形にしても1931年の映画に端を発するボルトの刺さったメカニカルなそれとは乖離した――と言っても容姿に関する具体的な記述はほとんど無いのだが――ある種超自然的な様子が描かれている。まずはこうしたギャップに対する新鮮な驚きをもって、本作の現代的な魅力が体感できるだろう。
本作のみを素材とした批評理論の入門書(注:廣野由美子『批評理論入門:『フランケンシュタイン』解剖講義』中央公論社〔中公新書〕、2005年)が書かれるほど、本作は多様な読解に開かれているが、ここではクィア批評の観点からの読解を簡単に行ってみたい。事あるごとに「自然」と対比された形で表される怪物は、創造主=父親であるフランケンシュタインから拒絶され、みすぼらしい小屋から「家族」を羨み観察しながら言語を習得し、一人の仲間も得られず世界から孤立する。このような怪物の立場は、「自然」ではないものとして病理化され、家族やコミュニティから排斥される同性愛者の姿と重なる点が多い。フランケンシュタインと怪物は、父親と息子のような非対称な関係でもあるが、同時に物語の終盤では互いに追い追われるような対等な関係でもある。フロイトが同性愛の機構をナルシシズムによって説明したように、度々鏡写しのようにフランケンシュタインに対峙する怪物は、フランケンシュタイン自身の同性愛指向を写し出しているようだ。その証拠に、「おまえの婚礼の夜に、きっと会いにゆくぞ」という怪物の脅しがフランケンシュタイン自身に向けられたものだという誤解は非常にナルシシズム的かつ同性愛的であり、その誤解がついに解消されないことで婚姻相手のエリザベスは命を落とす。フランケンシュタインが怪物の存在を周囲に秘匿し続けるのは、それが彼の「クローゼット」である故だ。
こうした前提を踏まえれば、本作の大きな特徴である語りの入れ子構造(ウォルトン―フランケンシュタイン―怪物)が生み出す効果は一層深く理解される。そもそも、他者に自分の物語を共有するという行為はすなわち、秘密を打ち明けるというエロティックな営みに極めて近しいものであり、それが男から男へ、そしてまた別の男へと繰り返されるというのはホモソーシャル的かつホモセクシュアル的である。他者に自らの性的指向を打ち明ける「カミングアウト」は”coming out of the closet”を省略したものだが、本作ではむしろ秘密を打ち明けることによって、読者は入れ子になったクローゼットの内側に招かれ、深遠なる物語の世界に歩み入ることになる。
1,000字程度の短い書評ですが、結構言いたいことを詰め込めた気がします。
参考文献として、細川美苗「メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』における男同士の絆」(『松山大学論集』19巻6号、29-45ページ、2008年)を紹介しておきます。書評を書く前に読んだので少し影響されている箇所もありますが、基本的には異なる論点でクィア批評を展開していて読み応えがあります。