フレディ・マーキュリーは、とてもいい人だった
<ムービージュークボックス>
映画は、監督の”主観の芸術”だと思う。
鑑賞者は、その芸術につき合う幸せにひたる。
芸術は、大きく分けて2つあるように思える。
1つは「ストーリー展開に参加する」快感を味わうもの。例えば、スピルバーグに代表される(インディ・ジョーンズや、E.T.のような)至福の芸術。
もう1つは「打ちのめされる衝撃を受けるもの」。天才キューブリックに代表される(時計仕掛けのオレンジや、2001年宇宙の旅などの)崇高な芸術。
映画は、この2つの芸術とどう向き合うか、という答えを求めてくる。
答えに個人差があればあるほど、その映画の深さや広さが生まれる。
実は、この2つの大河以外にも、小さな流れをつくっている支流もある。
”いい味”を出しているマイナーな作品たちだ。
例えば、「ウェインズ・ワールド」(1992)。
シカゴ郊外のケーブルテレビ局で、”ウェインズ・ワールド”を自作自演している
ご機嫌なミュージシャンの2人の日常が展開されます。
陽気で貧乏がとりえの2人です。
この映画の最大の見せ場は、”ボヘミアン・ラプソディ”車内絶叫シーン。
映画会社は、当初、ガンズ&ローゼスの楽曲を絶叫させようとしていた。
しかし、主役兼脚本家でもあるマイク・マイヤーズが、”ボヘミアン・ラプソディ”でなければ、映画を降りると言い出す。
「ボヘミアンは、自由を求める人。歌詞が、この映画の若者にぴったりなんだ」マイクの主張だった。
♪俺は、みんなの嫌われ者
貧乏なシケた若者
哀れな俺に救いの手を!
頼む、俺に自由を!
イヤだ、放さない!
放せ!
イヤだ!
放してくれ!
俺は悪魔にとりつかれた!
もうどうでもいい
誰の目にも明らか
何がどうなろうと
もう構うものか♪
会社は言った「マイク、冷静に考えよう」
「我々がたとえオーケーを出しても、クイーンのフレディ・マーキュリーの了承が必要だ」
「彼がノーと言ったら、映画がふっ飛ぶんだぞ」
「しかも、彼は、余命宣告されて病床にいる。機嫌がいいわけない」
「誰がどうやって、了承を取るんだ?」
とてつもない大きな壁が立ちはだかる。
マイクは言った「単に、いいものつくるじゃ、フレディは了承してくれない」
「とにかく、いいものを撮り上げる。フレディにそれを見てもらう。判断を待つ。これしかない。失敗したら、そこから考えればいい」。
全員、むち打ち症になるくらい頭を上下した。何度も再撮。全員、死ぬかと思った。
フレディにビデオが届けられた。
フレディの身体は、すでに栄養を取り込めなくなっていた。肉体が衰弱し、細胞が徐々に死んでいた。
ビデオを見たフレディは「ぶっ飛んでる」と、かすれた声で、許可を与えてくれた。
マイク・マイヤーズは、感謝で身をふるわせた。
映画公開前に、フレディ・マーキュリーは、若者へプレゼントをして、息をひきとった。