セックス、そんなにいらないな
お腹すいてない。私はつねに性的に、腹八分目です。
美味しそうなスナックがあれば手を伸ばすけれど、わざわざ遠出してまで買い求めたりはしない。大切な人がお腹を空かせていたら、美味しい料理を作ってあげたい。でも自分一人の小腹が空いたぐらいなら、家庭菜園でも食めばいい。珍しいハーブを育てているから。
そんな話をすると、お前は本当に美味いものを知らないだけだ、と決めつけられることがある。なんなら連れて行こうか、と。いやいやいや、それはいくらなんでも想像力の欠如ではないでしょうか。どっちかと言えば好きですよ。空腹を模した好奇心を動員し、倫理観と衛生観念の許す範囲でならバリエーションを試したことだってあるし。趣向の凝った、ときに野趣あふれる、あるいは繊細な、あれこれを。ただ、ご存じのとおり、珍味だからといって特別美味しいわけではない。美味しいなあ、あるいは美味しそうでうれしいなあ、としみじみと感じることもある。それでも残念ながら、空腹に勝るご馳走は、いまだ存在したことがないんです。
そう言い切れるのは、一度だけ、空腹に乗っ取られた瞬間があったから。数ヶ月前、隣町までのたった二駅、電車に揺られていた昼下がり。ちらほらと立ち客がいる空いた車内で、座席中央の手摺りを挟んだ私の両側は空席になっていた。Kindleを開きながらも集中力は微塵もなく、小難しい批評を耳から流れるオルタナティブに合わせて親指でゆらゆらとスウィングさせていました。右隣に人がいないことが妙に気になり、視点を固定したまま視野を広げると、そろぞろと車両に乗り込む人々が視界の端に映った。スウィング。人混み。再びスウィング。誰かがゆっくり近づいてくる。他の空席を見回し、迷い、一歩踏み出し、また戻り、私の隣に誰かが座った。焦茶の革靴、恐らくワイシャツ。グレーのボトムスをそつなく身につけた、何の変哲もない、男性に属する人間が私の右に存在をはじめた。存在しただけ。
それは突然始まりました。何の断りもなく私の右腕がシャツの体温を測りはじめ、薄い布地がガラスの剣山のように身体を撫ぜる感触が全身を総毛立たせる。鼓動が早まり、喉がうわずり、眼球が裏側から引きずりこまれ焦点が消失する。モノクロームの砂嵐が吹きすさぶ壮絶な気分に縛り付けられ、うつむきながらどうかこのまま誰も動かないでくださいと祈っていた。この激情があと数分続いたら、気を失ってしまいそうだった。
いつしか電車は速度を落とし、右隣はどこかへ消え、私はそれから解放された。全くもって何も起こらなかった。日常以外のことは何も。なのに私はそのあいだなら、なんだって売って、壊して、殺してしまいたかった。限りなく性的でありながら、行為とすら結びつかない地響に慄いて、私はしばらく向かいの窓を流れ去る景色に焦点の合わない目を沿わせていました。
だから、私はたぶん、正気を失うほどの空腹を知ってる。そっくりそのまま、あなたの欲望とお揃いというわけではないでしょうが、ワクチンさながら、どのみちあの猛毒を口優しく無害化したものが流通しているのでしょう。このエネルギーが適切に身体に循環していれば、どれだけ自分を脱出できただろう。欲望の機序を経験的に知った、先天的な不能者には夢想することしかできません。
現代人のほとんどのセックスは、本来の生殖行為から脱目的化した空疎な欲望の発露です。そのことを承知で、私は世間の人々が人生を犠牲にしてまでセックスに狂っているのを見ると、とてつもなく嫉妬してしまう。そして同時に、置いて行かれたような、うらぶれた気持ちになる。表題にはできれば裏面を挿入したい。セックス、ほしくなりたかったな。
私はいまや空疎な欲望に欲望してるんです。
いいなあ。なにそれ。楽しそう。ずるい、分けてよ、お前の欲望を。