【読書録】聖書周り
新約聖書の福音書を読む日々。何で今、いや、そんなにジャストのタイミングで読むべきものもない。読むことはたいがい、時期外れに行われる。
ニーチェが確か『喜ばしき知識』かどこかで、ルナンのことを批判していたので、とりあえずルナンの『イエス伝』を読んでいたのだが、新約聖書を読んでいなければそもそも背景というか、何が書いてあって何が事実なのかという所もわからないので、今まで何かの折に読もうと思っては放っていた新約聖書を手に取った、という次第だった。今では予想はついている、あまりルナンの書いたことの中に事実は含まれていない、ただ、それのみをニーチェが批判したのではないだろう、ニーチェだって、実際に過去に何があったのか、それ自体についてこだわる所はないだろう、問題はやはり、態度形成、いや、そもそもが、聖書を聖書から読み解くみたいな循環構造について、批判していたのか、ニーチェは聖書とそれを読み解く僧侶階級の人々をまず批判していたのだから、ルナンはその次に来るのであって、……
聖書自体に何が書いてあるのか。これも今まで様々な批判的文章を読んできたから、おおよその所はわかっている。ただ、この何となくすでに知っているということを警戒しないといけない。名前を知っているのか。新約にも、出てくる場面は少ないにしても、誰は誰の子で、誰は誰の子で、……という、無限に思える系譜の羅列が存在する。いったい誰の名の下にいるのか。旧約では、一から三に、三から五にだんだん雪だるま式に増えていくのでまだ覚悟が出来ていた。しかし、新約は、そのアダムから続く何十代とつづく系譜が、いきなりドンと表示されるので、戸惑いを隠せない。新約から急に読み始めるなど、不可能なのかもしれない。読書は、まるで取り付く島のない個所から、急に始められなければいけないし、なんの必然性もなく始めなければいけないと思っている。