【日記】ベルクソンとおいもグラフィー
面白い連想。かつてあったインターネットラジオ番組「ポアロのあと何分あるの?」内のコーナー、ポアロBBSにおいて、イギリス超特急という、その番組専属みたいになってて番組の流れに噛んでもいるハガキ職人が送っていたラジオドラマの脚本みたいなシリーズがあって、「アストロ怪奇調査隊 ファッソリファイル」というのだが、X-ファイルのように、調査隊が都市伝説の正体を科学的に暴こうとして、結局超常的な力に圧倒されるという筋で、その調査隊が使用する検査機器の代表格に、「おいもグラフィー」というのがあった。
おいもグラフィーは、サーモグラフィーのおいも版(?)のようなもので、何かを感知すると、「ほくほく」の文字が浮かび上がったりする。
ベルクソンの『物質と記憶』の最後のまとめの所で、科学というものの習性のようなものを説明する段がある。私たちは何かを知覚するが、その正体は直感的にはわかってもそれが正確ではなかったり、わからなかったりする。科学としての視点は、いったん人間による知覚を遮断している。しかし、そこで再現しようとしているのは、知覚されざる実体である。その実体を、別の形で、不可視のものを見ようとすることが、科学のひとつのアスペクトであると。
という所を読んで、私は、今までこの世にはなかった連想だと自信を持って言えるが、「おいもグラフィー」のことを思い出した。科学的な機器として、一番科学の精神を表象しているのは、「見えないものを見ることができる」機械である、ということが、この「おいもグラフィー」の、不朽の地位を説明していると思えたのだ。
しかし、「ファッソリファイル」を元型的な物語として捉えるならば、その科学の精神は、あたかも天狗が草から取り出したような大きな扇子で、人々の鼻を撫でていくように、価値転倒的なふざけたやり方で、圧倒されてしまうものであるのかもしれない。