【読書録】セシュエー『分裂病の少女の手記』
前に読んだ、吉村萬壱の『哲学の蝿』の中で紹介されていたので、読んでみた。みすず書房の薄めの本で、既に家にあった。のみならず、一度半分ほど読んでみている。しかし、途中からそのことを思い出す、というくらいには内容を忘れていた。
吉村萬壱は、「物書きになった人間が、公には言っていないけれども、実は読んでいて書くことの大きな養分にしている本があると踏んでいて、この本もその一つだ」といって、本書を紹介していた。
あまりないタイプの本で、精神分析のフロイト直後、ラカン以前という時期? に発表された、症例の分析という趣で、その対象者の手記が、本編のほとんどを占めている。同じくこの辺りの時期の精神疾患を持っている人の大部の本として、『シュレーバー回想録』というのがあるが、あれはまだおそらく、きちんと治療され切っていない人がその状態の渦中で書いているという所があるが、この本の場合は、セシュエー女史の精神分析の対象となった、もともと分裂病、現在では統合失調症と言わなければいけない病気を持った少女ルネが、完全に治療されたのち、病気を持っていた時のことを振り返り、それを手記にまとめたものなので、吉村萬壱も指摘しているが、いわば病状について、距離をもって、ある程度理路整然と語っているという部分が違っている。
当事者ではあるが、現在進行形ではないので、『シュレーバー回想録』とか、その他アウトサイダーアート的なものを期待していると、ちょっと期待が外れるかもしれない。しかし、ここで使っているシェーマ、というのは、セシュエーは基本的にフロイトの道具立てを、少し発展させて使っているような趣がある。フロイトの精神分析の道具は、後年いろいろな批判があり、特に視点が男性的でそこからしか照明を当ててないという部分もあるため、ブラッシュアップするために様々な努力がなされた。ラカンはその意味で延長線上にあり、ファルスとか、より先鋭化した感があるが、それとは反対に、女性としての視点から、書き換える様々な努力がなされもした。そんな中で、この研究、というか治療行為がなされたのは、たぶんフロイト没後で、まだフロイトの死体が冷めていなかった頃だと思う、その影響下で考えなければならないという圧も強かったのだろう、しかし少女と女性の治療者が、しかも母と娘という立場を可能な限り強めて、その関係性の中で治療を進めたという、おそらくフロイトは思いもよらなかった方法なのではないかと思う。そんな、過渡期の、治療ってそもそも何だろう、どうやってやるべきなんだろうというのが模索されていて、動いている、不安定であるという感じがビシビシ、行間から感じられて、その点では読んでよかったと思った。
しかし、僕は単純に、えも言われぬインスピレーションを、多義的な感情を読んでいて覚えたかというと、そうではなく、余りいい意味でショッキングな出来事とはならなかった。そこは、吉村萬壱との、感じ方の違いというほかないだろう。自分には自分の、「書くことへの大きな養分となる一冊」が、どこかにあるのだろう、そう信じて、また読み始めるしかない。
それはもう、今まで読んだ中にもあるのかもしれないし。