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アートまち散歩 〜近所のお寺〜

都会に住んでいると、自然の有難さをより強く感じる

朝の晴れた日に、優しい木漏れ日の中に立ち、季節の移ろいを感じたり、鳥たちの囀りに耳を澄ませたり、いつもよりゆったりと流れる時間に身を委ねた時、

「今必要だったのはこの時間だったのかもなぁ」と感じたりする。

1日のうちに少しでもそんな時間を作れたらと思い、私は2年ほど前から、毎朝近くのお寺を散歩することを習慣にしている。

そこで感じる四季折々の美しさや変化は、どんなアートよりもたくさんの癒しと気づきを私に与えてくれるのだ。

【とあるお寺の四季】

桜、オオアラセイトウ(紫の花)
冬を耐え忍んだ草木が華やぐ


初夏 美しい新緑の季節
陽の光を浴び、生命がキラキラ輝いている


秋 傘地蔵の背から昇る、朝日のぬくもりが心地よい


大イチョウの落葉で石庭が黄色く染まっていく
冬 1年のうち数少ない東京銀世界
うっすらと化粧した石庭
厳しい寒さを耐え忍び、再び春の訪れを待つ

このように季節の移ろいの中で感じる生と死の連続に、美しさを感じずにはいられない。

日本特有の美意識と言われる「侘び寂び」の精神というのは、日本人にどのように育まれて行っているのだろうか?

特に学校や家庭で教育を受けるわけでもないのに、自然と私たちに備わっている共通の感性。その正体はいったい何なのだろう?

これはあくまで私なりの見解だが、おそらく日本の文化に根付いた自然観に侘び寂びの精神のルーツがあるのでは?と考えている。

地震、津波、天候など、抗いようのない大自然の脅威が歴史的にも繰り返されてきた日本。それは反面、自然から多大な恩恵(綺麗な水、森、温泉、四季etc...)を受けてきた。

そこから自然を感じる「信仰」が生まれ、
自然を生かす米、保存、加工の「食文化」が生まれ、
海外の文化を取り入れ歪に変化する「習合文化」が生まれた。

つまり日本人独特の自然観は、自然から受ける恩恵(生)と脅威(死)とどう向き合っていくかを繰り返していく中で育まれていったのではないだろか?

侘び寂びという美意識に、死の匂いを感じるのもその道理なのだろう。


都会にいると、自然を遠くに感じる。

でも間違いなく私は日々自然の恩恵を受け、生物の死を喰らい自分の生の糧としている。

私が毎朝寺に行くのは、
そういった歴史の侘び寂びを体感することで、生きとし生ける物に感謝し、今日を生きる喜びを五感で感じたいからなのかもしれない。


というわけで、かなり感覚的な話になってしまったが、今後たくさんのアートと触れ合う上で、私自身の美意識を知っておくことの重要性を感じ、この機会に言語化してみたくなった。

皆さんはどんな時に美しいと感じますか?

今日も最後まで読んでくださりありがとうございました!

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