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0107「粘始のご挨拶」
私は、年末年始のこの時期が大嫌いだ。正月のお休みの時期は好きだけれど、年末と年始が大嫌いだ。何が嫌いって、年末にはみんなその1年の活動をまとめたり、年始にはこれからの1年の抱負みたいなことを発表したりするじゃないですか。私自身も年によってはすることがあるので人のこと言えないのだが、もう、あれが辛くて仕方がない。
年末の締めくくりと年始の抱負を公開する人たちを責めているのではない。私は自己肯定感が低いのだ。みんな本当にすごい。みんななんて充実した1年を送っているんだ。それに引き換え自分はこの体たらくだ。何も成し遂げてねえ。そんな思いでいろんな人たちの1年振り返りに目を通しては年の瀬なのに劣等感や焦燥感がこみ上げてくる。
隣の芝生は青く見えるもので、恐らく私自身の1年のまとめなんかをすると、実は結構それっぽくなっていて、他の人から見たら同じように「充実した1年」に見えてしまうこともなんとなく気づいている。しかしながら、私は主観的な生き物で、どうしたって他の皆さんの活動がキラキラして見える。
さらに辛いのが年始だ。年始はつらい。もう、一言で言うと、「みんなやる気ありすぎ」だ。ソーシャルメディアには、年末年始でリフレッシュして、新しい1年に向けてポジティブでフレッシュな心持ちで臨もうとしているやる気ほとばしる投稿が飛び交っている。言わずもがな、私も年によってはそういうことをする。今年だって、世の中がこてんぱんな時期にも関わらず、もう、みんな前向きだ。後ろ向きなことを書いている人がいない。当然ながら前向きな人たちが悪いのでは全然なくて前向きなことは絶対に良いことだが、私がつらいのだ。何でみんなそんなにやる気があるんだ。
私だって別にやる気がないというわけではない。昨日は所属している会社・コミュニティの仕事始めだったので、一年の抱負みたいな、結構前向きなスピーチをやったし、嘘を言っているわけでもない。しかし、この時期になると毎年、世界中で「やる気パワー」みたいなものがスギ花粉のようにすごい勢いで漂ってきて頭がボーッとして息苦しくなる。1つ1つなら良いものの、全体的なポジティビティにやられてしまうのだ。
私は仕事が嫌いだ。
正確に言うと、「自分が携わっている労働」が嫌いだ。嫌いであり、怖い。怖いから嫌いなんだとも言える。どのくらい怖いのかというと、毎日毎日、仕事を始める前の瞬間は何かの予防注射が予定されている日の朝のように憂鬱になってしまう。
自分がやっている仕事の価値は大きいと思っているし、やりがいもある素晴らしい仕事だと思っている。しかも、やりたくてやっていて、なりたい職業になっている。じゃあ喜んで仕事しなさいよ、という話だがそう簡単には行かない。
自分のやっている仕事が性に合っているわけではないので、緊張感がものすごいのだ。ドキドキして嫌な汗が出る。それが毎日続く、毎日続くとある程度麻痺するが、ちょっと休むと戦場に戻るのが怖くてつらくなる。私はニューヨークに住んで、日本の会社・コミュニティも取り仕切っているので、日本が月曜になって動き出す日曜の夜にはノルマンディーに上陸する前の海兵隊みたいな気分になっている。普通の月曜日でもそんなんなんだから、1週間近く仕事から離れた後の正月明けなんて、緊張で吐き気すらしてくる。そんなもんだから、年始のいろんな人たちのやる気に満ちた所信表明や抱負みたいのが、上官に「進め! 前に出ろ!」と言われているような心持ちにもなる。焦る。本当は敵前逃亡したくって、怖くて仕方がないけど、また前線に出なくてはならない。
私は、本来自分が苦手なことを仕事にしている。私がやっている「テクニカル・ディレクター」という仕事は、デジタルものづくりの技術監督と言える仕事だが、「監督」というくらいなので、コミュニケーションが重要な仕事だし、人と人をつなぐようなポジションでもある。「技術監督」なので、野球監督がもともとは野球選手であるように、プログラマー・エンジニアでもある。実はそのへんの作業仕事は純粋に楽しむことができる。緊張感もそんなにない。ワクワクはするが、嫌な汗はかかない。ところが、天才プログラマーとかそういうのではないので、自分にしかできない仕事というものを突き詰めていくと、他の「技」と合わせて価値を生み出していくしかない。結果的に、「技術監督」=「技術コミュニケーター」みたいな仕事をやっている。で、誰がなんと言おうと私は人と話すこともチームを仕切ることも苦手だし、いつまで経っても怖い。
苦手だし怖いけど、話すことも仕切ることもできる。ただそれも元来できたわけではなくって、幼稚園から高校に至るまで、少年時代のほぼ全てを陰キャとして過ごした自覚はある。
後天的にそういうことができるようになったのは、大学生の頃やっていたバーテンダーのアルバイト(バーテンダーという職業はものすごく「人の話を聴く」スキルが育つ)と、20台中盤で廃人のようにやっていたオンラインゲームで、最初に選んだ職業が魔法使いとかそういうチヤホヤされる職業ではなくて、モンクという不人気な職業であったゆえに、自分でレベル上げのためのパーティーを集めて仕切らなければならなかったという経験がでかい。自分にとっては「ボーナススキル」みたいなものなのだ。
ゆえに、「しゃべるの上手ですよねー」とか「仕切るの得意ですよねー」とか言われることもあるが、とんでもない話で、私などはちょっと皮を剥けば圧倒的コミュ障だ。
だからと言って、しゃべるのも仕切るのもつなぐのも仕事なので、一緒にお仕事をして頂く方でこの文章を目にされた方がいらっしゃっても、忖度して頂かず、いつも通りに使ってやって頂ければというところではあるが、苦手なものは苦手だ。仕方がない。いくつになっても人と話すのが怖い。
数日前、ウォーレン・バフェットが母校の卒業生に向けたスピーチで語ったという言葉がある。
「仮に働く必要がないとしたら、どんな仕事をしたいか。自分が尊敬する会社や尊敬する人のために働くこと以外の何かに満足してはいけない。それは、お金がもらえなくても、毎朝ベッドから喜んで飛び起きてしまうような仕事のことだ」
なんて、バフェットは言っている。「毎朝ベッドから喜んで飛び起きてしまうような仕事」なんてとんでもない。こっちは毎朝恐怖から逃れるために二度寝している。
そんなこんなで総合的に評価すると「私は仕事が嫌いだ。」ということになる。自分の仕事が、毎朝ベッドから喜んで飛び起きてしまうようなものだったなら、もっと圧倒的な仕事をできるのかもしれない。こんなんだから私はダメなのかもしれない。
しかし、一方で、そんないやいやベッドから出て仕事をしていても、なんだかんだ十何年もこれを続けている。毎朝ベッドから喜んで飛び起きなくても、続けることに価値があるものだってあると信じたい。
なんでこんな文章を書いているのかというと、年始でしんどい人たちが、私以外にもたくさんいるはずだと思っているし、そんな人たちに「今年の俺はがんばるぞ!」ではなくって、「今年もどうにか、一緒にがんばってやっていきましょう」と言いたいからなんだと思う。いや、むしろ私がそんなふうに言って欲しいんだと思う。
ますます生きるのが大変な時代だし、仕事もシビアだ。一応株式会社の経営者でもあるので、そういう胃の痛みも常にある。今年もスタートしてしまった。怖くって失禁しそうだが、どうにかこうにか、向こう岸にたどりつけるようにがんばっていければと思う。
仕方ないので今年も頑張って泳ぎ始めます。本年もよろしくお願いいたします。