通史で読み解く司馬史観4 「本能寺の変」 戦国時代編 「国盗り物語」「新太閤記」「覇王の家」
2020年に始まった明智光秀を主人公とする「麒麟がくる 」のラストに合わせて、通史で読み解く司馬史観における、登場人物たちの運命の綾の分析も「本能寺の変」に入ります。
当然ここでも司馬遼太郎の「国盗り物語」「新太閤記」「覇王の家」の読み合わせとなります。
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本能寺での明智光秀謀叛の発端は、武田勝頼討伐の諏訪法華寺で、織田信長が満座で明智光秀を折檻した場面とされ、この件を司馬は「国盗り物語」で書いている。
ここに至る伏線はあった。
信長は全国制覇が見え始めると、多年の功臣である佐久間信盛、林通勝、荒木村重などを次々に排除したと、司馬は書く。
加えて「麒麟がくる」でも、松永久秀、三淵藤英などの排斥も描写された。
この連続した排除活動は、利己主義すぎる信長の性格に起因している。
司馬は、信長の本質を「人を人とは思わず、単なる道具とみる」とする。
信長の性質は、優秀な道具を見極める。そして、その道具は使えるうちに使い、壊れるまで使い切る。当然、使えなくなれば、潔く捨てるという冷酷なものだ。
信長らしいこの性質が、度々、家臣からの謀反を呼び込んだ。
さらに悪いことに信長には時代の猜疑心が十分過ぎるほど備わっていた。
周囲を見ても、過去を見ても、美濃の斎藤道三をはじめ謀反、下剋上はこの世の常だった。
そのため、信長は裏切り、謀反などの兆候に敏感だった。敏感過ぎたともいえる。そしてもうひとつ、信長は、弟にも、母にも嫌われた家族運のない人生だった。そのことは元来の猜疑心を育てたはずだった。
これらは彼が生きた「下剋上」が醸成する、時代の根深い性質なのだ。
家臣にしてみれば、「天下布武」の旗揚げまでは良かったのだ。
信長から与えられた目的も明確で、自分たちがすべきことも迷いがなかったから。
幾度窮地に追い込まれても、運は信長に味方していた。
問題は、天下統一の、先の話だ。
家臣たちは考え始めた。その後の天下平定を織田家の血統で固めると信長が考えたら、どうなるか。
事実、佐久間信盛、林通勝、荒木村重、松永久秀、三淵藤英などに与えた厳しい処断が続いた。
彼らには、織田家の家門主義の邪魔になった家臣から、順に排除されていくように見えた。
そう疑えば、「いずれ自分も捨てられる」と、家臣達は考え始めた。
そして、疑惑は疑惑を呼ぶ。
そう考えれば、将軍足利義昭への過酷な対応も、道具使い、道具捨ての一例だったではないか。
「麒麟がくる」では、将軍家どころか、天皇家も道具化する信長の姿が描かれた。社稷の天である天皇ですら信長には道具でしかないように見えたはずだ。
それからすれば、出自の卑しい自分なぞはどうなる。
「次は自分の番かもしれぬ」
信長に謀反を疑う猜疑心があったとすれば、家臣団にも自分が抹殺されるかもという猜疑心があったのだ。
では、本当に織田信長に、織田家による日本支配のような構想があったのか?
徳川15代将軍家のような血族による支配体制が、信長が目指した「天下布武」の理想郷だったのか?
昨年の「桃山展」を観ながら考察したのだが、信長にそんな矮小な構想はなかったと思う。
明らかに、信長の指す天下布武は日本の枠に収まっていない。
日本平定の後は、カトリック教会と連携して、少なくともアジア進出まで考えていたと思われる。
もしかしたら、彼らを逆に利用してヨーロッパ進出も考えていたかもしれない。
先日、「NHKスペシャル 戦国」でレポートされたように、当時の日本の武士団の戦闘力は世界一だった。
それは、当時の大航海時代に、船で世界を渡り、この眼で世界中の戦いを実際に見て、世界を制圧してきた宣教師たちが、
冷徹に国際比較をしたうえで結論付けた「新しい世界常識」だった。
その戦闘力をスペインなどのヨーロッパ列強が、利用しようと信長に近づいてきていた。
織田信長が、日本から飛び出て、世界進出を構想していたとすれば、家臣団の増強は必須だった。
それはチンギスハンが、家臣団を増強した例にも、ユリウスカエサルが征服地の氏族をローマに集めて家臣に加えていった歴史にも同じなのだ。
実力主義の信長なら、広大な領域を束ねるためには道具は多ければ多い方がいいはずだ。
彼なら、より巨大な家臣団を作り、より固い結束を求めたであろう。
それこそが「道具使い信長」の本質である。
そして、信長にとって血縁と家臣の差はあまりなかったと思われる。
跡目争いで家族同士を殺しあった自分の生い立ちからしても、「裏切る人間はいずれ裏切る」という信念があったはずだ。
信長にしてみれば、誰一人信用などしていなかった。信用はしていないが、使わざるを得なければそれを使うのが、信長なのだ。
だからこそ、出自や家柄は関係なく、実力主義で部下を取り立て来たのだ。
ならば、こう考えたのではないか。
比較的安定するはずの日本国内は織田家の家族経営で運営し、今後、切り取り放題になるはずのアジア各国を家臣に与える。
野心がある家臣にはその成果に応じて、半島でも、大陸でも、大きな報奨を与えていけばいいのだ。
自分は世界の王なのだから、それは造作もないことだ。
その規模の巨大な構想を、信長が持っていた可能性はある。
この縮小版を朝鮮出兵で秀吉が模倣する。
秀吉の場合、それは世界進出構想というより、家臣に与える分け前が日本制覇で枯渇したことに起因するのが、残念な話。
しかし、信長のそんな途方もない構想をこの当時の日本に閉じこもっていた偏狭な織田家臣団に理解できるはずがないのだ。
たぶんこの構想を受け止めきれたのは織田家臣団にあって最も怜悧な明智光秀だけだったはずだ。
非常に残念なのは、この時の光秀は、信長に対する憎しみと猜疑心で「大きな麒麟」を見損なってしまう。
この行き違いは、本能寺で永遠に埋まらない溝となる。
肥大化する魔王・信長。彼の巨大な世界進出構想は誰にも共有出来ない、そして孤立する信長。
「麒麟がくる」では、その裏側で明智光秀に人望が集まっていったとされた。
しかしならば、本能寺以降、なぜ光秀は世間から見放されたのか?
山崎の合戦で光秀についた味方の少なさは何だったのか。
盟友・細川藤孝でさえ、光秀側に参戦していない。この時代に求められた将の器、人望というものの難しさよ。
謀反を正当化し悪評を打ち消すか、それとも悪徳のうちに天下を治めるか、本能寺の直前、光秀には困難な選択が迫られていた。
「時は今 天が下たる 五月哉」
光秀が本能寺の直前、連歌師里村紹巴の前で読んだ連歌の発句である。
「(決起の)時はいま、美濃・土岐源氏の血をくむ明智が天下を改める」の意で、この段階では、光秀は朝廷に政権を返上するつもりであったと司馬は解釈する。
ただし、明智光秀の真意は定まらない。
翌日、腹心に打ち明けたときは、「(謀反をすれば世間の悪評がたつ、でも)自分には私心はないのだ。天下を信長から奪った後は中国に在す義昭殿にお返し申したい」と司馬は光秀に言わせている。若き日に誓った足利幕府再興にあるというのだ。
「麒麟がくる」でも、本能寺の変の黒幕を複数あるかのごとく仕掛けている。幕府の義昭、天皇家、徳川家康、さらには帰蝶まで。
しかし示唆したのがだれであれ、共謀者がいようがいまいが、実行者はあくまで光秀である。彼には謀反の悪名が残る。
司馬は言う。「要するに光秀はこの一挙をなんとか正当づけ、弑逆による悪名かた自分を逃れさせたい一念なのだろう」
しかし、最後には天下取りを決意する。その時に思い浮かべるのは、師・斎藤道三のことだった。
「道三一代の悪業をおもえば、いま自分が信長を討滅して天下をうばうなどのことは感傷にも値しない」
道三の所業は、中世の迷妄と無用の権威をこわして近代化するという美名のもとに行われた。
道三はその理想をかかげて、そのつどそのつど悪行を浄化してゆき、美濃人の批判をねむらせた。
できれば道三山城入道のごとくありたい
「光秀と信長編」で触れたが、斎藤道三には愛弟子が二人いた。道三の革新は信長へ、道三の保守は光秀に受け継がれていく。
そしてこの愛弟子のふたりは、「古き秩序」を巡って同床異夢のかけ違いをしながらも、なんとかお互いをだまして添い寝を続けた。
しかし、信長の構想の巨大さと、その時代が要求した無慈悲な性格のために、ついに本能寺で衝突するのだ。
「謀反でござります」
「相手は何者ぞ」
「惟任光秀に候」
「是非に及ばず」
さて、もう一人、本能寺の変で、九死に一生を得る男がいる、徳川家康だ。
徳川家康は、変の2年前に、信長から人生最大の苦難を与えられる。
いわゆる「築山事件」だ。
武田勝頼に息子信康と正室築山が内通しているという噂に、信長が過剰に反応し、家康に対して越権ともいうべき「妻子の成敗」の命令を与える。
ついには、正室の築山御殿と最も愛した実子・信康を自害させるはめに至る。
家康は、三十七歳の時のこの恨みを終生忘れることはない。
こうして信長の猜疑心は、家臣だけでなく、最大の同盟者をも離反させていく。
さて、築山事件後、武田家を滅ぼした家康は、信長から駿河一国をもらい、そのお礼に富士詣として信長を接待する。
この時の家康側の接待が完璧だったと、司馬は詳しく書いている。
信長はその返礼に、家康を京と堺見物に誘う。この「徳川どの接待」の大役を担ったのが、丹波丹後を平定したばかりの明智光秀である。
この接待の日の光秀を「表情が冴えず、どこか思いが濁ったようなー」印象を受けたとある。そして、わずか三日でこの接待役を解任させられる。
理由は、「覇王の家」では、信長が毛利攻めへ光秀を急遽派遣したたためとされているが、「麒麟がくる」ではこの饗宴の際に、再び信長が光秀を打擲したように描かれた。
その後、信長自らが家康を京へ案内し、家康はその足で堺へ回った。
家康がわずかな供連れで堺に入ったのが5月29日。明智光秀が毛利行きの大軍を率いて坂本城を出たのが6月1日の夜。
翌日6月2日、家康は堺を出て再び京に戻り、信長に御礼をするつもりだった。しかし、当の織田信長は、もうこの世にいなかった。
ここから徳川家康の「人生最大の逃げ」が始まることになった。この道行、「覇王の家」に詳しい。
枚方で信長死すの報を受けると誰を信じるべきかも決められず、忍者の里・伊賀甲賀を抜け、駿河まで命からがら逃げかえる。
家康は終生「伊賀越えのときは」と苦難を語ったという。
築山事件といい、伊賀越えといい、この男の記憶は、苦い思い出で詰まっているようだ。
その逆に、これを人生最大のチャンスととらえたのが、豊臣秀吉であった。
毛利攻めの山場であるにもかかわらず、黒田官兵衛が信長死すの報を持ち込むと、急ぎ休戦して
いわゆる「中国大返し」を実行する。この場面、もちろん「新太閤記」の見せ場である。
正直、山崎の合戦よりも、このスピードで信長の敵討ちに駆けつけることが勝負だった。
時代の気に敏な細川藤孝はこう読んだ。
「光秀は保つか。保つまい。光秀は人気を失い、他の四人の旗頭、柴田、丹羽、滝川、羽柴に人気が集まり、かれらのうちたれかが京の光秀を攻めれば、その旗のもとに諸将も人気も集まる。光秀はほろびる。わしは光秀に与しない」
ほどなく備中にあった羽柴秀吉が兵を旋回し、光秀を討つべく山陽道を駆け上っていることを知り、
「秀吉の世が来る。北陸の柴田勝家は早急には京に到着できまい。関東の滝川一益は遠く離れすぎているうえに人気がない。羽柴長秀は織田家の老臣であるにとどまる。才略徳望ともにそなわって、しかも京に近い場所にいるのは、羽柴秀吉である」
山崎の戦いは、闘う前に決している。中国大返しを決行したことで、秀吉は時を味方につけた。
しかし、その秀吉に、天下をどのように治めるかという構想図はなかった。これが非常に残念な事実だ。
光秀は山崎で思う。「どうやら自分は新時代の主人になるにはむいていないようであった。(そうらしい)
かつての道三は適いていたのだろう。信長は、刻薄、残忍という類のない欠点をもちながら、その欠点が、旧弊を破壊し、新しい時代を創造しあげるのに神のような資質になった。光秀は考えた。かれには、時代の僥望にこたえる資質はないようであった。ひとびとは光秀を望まず、秀吉を望みつつある」
麒麟は、信長を望まず、麒麟は光秀も望まず、平民出の秀吉を選ぶ。これが近世の麒麟の判断だった。
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