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世間の波に揺さぶられた『ちんとろ舟』
『ちんとろ舟』の真実は
愛知県の『ちんとろ祭り』で用いられる『ちんとろ舟』が話題になっています。
今月初めは、聖火リレーで用いる『ちんとろ舟』が女人禁制であると報じられました。
しかし一変して、『ちんとろ舟』は女人禁制ではなく、聖火リレーで女性を乗せたというニュースが報じられました。
一体全体どういうことなのでしょうか?
真実は何なのでしょう。
一旦、世界に目を向けてみます。
アメリカと中国〜ガブリエル考〜
ドイツの新進気鋭の哲学者マルクス・ガブリエルは米中2国のことを以下のように述べています。
アメリカ人は文化的に異質なものについて無知である。
自らを普遍的価値に基づいていると考えているが
その実、アメリカ人は非常にアメリカ的な価値に基づいている。
アメリカ自身は文化的多様性があると考えているが、実際は荒唐無稽である。
中国人は人種差別的思想の上に成り立っておりおり、漢民族という概念は非常に人種差別的かつ非倫理的概念である。
アメリカ人は自分たちを反差別主義者と信じて疑わないが、実際は差別主義であり、中国は明らかに差別主義である。
今、これらの2国が激しく対立している。
彼によれば米中は非常に似通っている国であり、似たもの同士であるという。
だから激しく対立するのだ。
そして2国の丁丁発止にある程度、諸外国は耳を傾けざるを得ない。
これが現実です。
ジェンダー論・五輪憲章は伝家の宝刀か
オリンピックの聖火リレーを契機に
長年行われて来た『ちんとろ祭り』の風習、伝統を覆すことになりました。
聖火リレーでの『ちんとろ舟』は、あくまで神事でなくイベントとしての使用であったというのが、当事者の弁です。
なんとも歯切れの悪いコメントですが。
実際は、今回の行為は伝統文化への冒瀆であり、無理解に他ならないと思います。
「男性だけが船に乗る」
これを差別という。
このジェンダー論という考え方が、これまでのその地方で綿々と受け継がれてきた伝統を蹂躙することは、横暴であると言わざるを得ない。
いや元を正せば、もともとこの『ちんとろ舟』を聖火リレーのなかに持ち込んだ人間が、つまりこの案を具現化した人間が、祭りに対して、ひいては歴史・伝統文化・神事に無理解であったのだ、ということになる。
PRという甘い蜜に負けて、神事として守られて来たものを破壊した。
さらにこのような顛末を世界から注目を集める問題となったわけです。
しかし
五輪憲章やジェンダー論を持ち出せば
それが伝家の宝刀の
如く
何もかもをも平伏させることが出来る。
そう思っているフシがあったのではないだろうか。
ジェンダー論に理解を示す視点からみたとしても
今回の『ちんとろ祭り』がオリンピックを引き金にして議論されたことは頂けない。
祭りの男女不平等性を問題視し、女人禁制という開催方法を見直す議論をするならば、何かを(ここでは聖火リレーということになる)持ち出してではなく、祭り自体のあり方として、単独で行われることが必要なのだ。
採火式は女性のみで行う
採火式は非公開で女性のみで行われるそうで、巫女の服装をした女優たちによって凹面鏡で太陽光が集められ、トーチに採火する。
オリンピックの聖火を採火するイベントは、女性だけで執り行われるそうです。
由来や歴史はともかく、そういう事実があります。
これは五輪憲章的にオッケーですか?
ジェンダー論としては
「採火式に男性を入れろ」
という声があればやり方を変えますか?
ちんとろ祭りの件と、一貫していますかね?
正しいとはなにか
先に挙げた米中の丁々発止ですが、この2国も含め、世界において発言力を持つ国の言動は、時として正義という力を持ってしまうことがあります。
しかし正しいことは、時代、地域など文脈が変われば全く異なります。
『五輪』と、ある地域に根ざした『神事』は相容れないものであっても不思議ではありません。
そもそも『五輪』もとあるギリシャの一地域の祭りに過ぎなかったはずです。
それが時を経るにしたがい世界で認識されるアスリートの祭典となったからといって、それが掲げるルールが何もかもを変えられるものであってはならないのです。
そこを押し切る事はそれこそ暴力です。
IOCやJOCが指示したわけでなく県や市など自治体が勝手にやったに過ぎない。
彼らはそういうかもしれません。
いずれにせよ、IOCやJOCが五輪憲章の名の下に、無言の圧力を掛けることになったことは事実でしょう。
オリンピックという名の下に、ジェンダーを声高に主張し、伝統文化・神事をも簡単に変化させようとする、そしてその圧力に屈する。
「憲章に反すると声をあげた者」
そして
「その声に応じた者」
結果的には、互いによる共同戦線によって、神事である『ちんとろ祭り』が破壊されたのです。
両者共に結局のところ、この祭りを大切に扱おうという意識が充分ではなかったといわざるを得ません。
祭りのPRのつもりが、汚点・汚名というカタチで『ちんとろ祭り』を世界に名を知らしめることに加担したことは否めない。
祭り自体は、ここからの立て直しにどれだけの時間と人による労力が必要だろうか。
いまの状況で、地域にここまでの代償を支払わせるまでして聖火リレーや本大会を強行することが本当に正義なのか。
そこまでやって、果たして世界に名高い五輪の、その崇高なる存在を維持することに繋がるだろうか?
やみくもに開催に反対するわけではないが、
諸手を挙げて歓迎することには到底ならない心境なのが正直な気持ちです。
五輪開催が、有識者によってリスクよりベネフィットが上回るといつ方程式が弾かれているのであれば、
是非ともその解答の解説を行なって欲しい。
それで我々を安堵させる
それが最低でも必要だろう。
五輪の名の下に誰もが平伏すような時ではない。
それは正義ではない。
おしまい
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