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「好き」を語ることは自分の価値観を知ること│「好き」を言語化する技術

SixTONESを好きになってから、「推し活用」のXアカウントを作った。好きの気持ちを共有したい、同じ「好き」を持つ人と交流したい、そんな気持ちからだった(SixTONES沼へハマったきっかけは自己紹介記事をどうぞ)

文章を書くのが得意だった子ども時代から、「書く」ことが遠くなった今

元々、文章を書くのは苦手じゃない、むしろ得意な方。
子どもの頃から自分の気持ちを「話す」ことが苦手だったので、代わりにやたらと手紙を書いていたように思う。今思えば、自分の気持ちを何とか伝えたくて、あれもこれも書くもんだから、いつも枚数の多い手紙になっていて、私から手紙をもらっていた友だちやら当時の彼には申し訳ない(笑)

手紙じゃないけれど、確か小学1年生だったか2年生だったかの時に、クラスで飼っていたウサギが亡くなり、そのウサギの思い出を書いた作文は原稿用紙41枚だったと記憶している。
原稿用紙41枚って、16,000字を超えるのよ。ちょっとした短編小説と同じ文字数。それを小学校低学年で書いた私、我ながら怖い。

鍵付き日記帳に日記も書いてたなぁ。
それぐらい書くことは身近にあったのだけれど、仕事を始めてから少しずつ、「書く」ことが遠くなっていった気がしている。

仕事柄、提案書や報告書を作ったりすることは多かったし、ブログやコラムの記事を書くこともあった。
でもそれは、あくまでも「仕事」という制約の中での話。
「組織人、あるいは社会人としての私」というフィルターを通して、文章を書いている。もちろん、いくら「社会人としての私」を通していても、私という人間は1人しかいないから、そこに自分の価値観や思いは反映されるけれど、それでも自由に自分の気持ちを綴っていた学生時代とは全然違うわけです。

そんなことを続けていたら、自分の「好き」をどう表現したらいいか分からなくなった。Xでポストするときも、「なんかしっくりこないな」「こんなこと書いていいのかな」と考えてしまい、日の目を見ることなく葬り去られたポストもどきが、実はたくさんある。
ポジティブなものもあれば、好きが故の憤りだったり、持て余してしまった感情だったりといったネガティブなものも。
葬り去られたそれらが、昇華されればいいんだけど、意外と心の中で燻って、ひどいと腐ったりするんだよね。

どうしたものかと思っていた時に、Xでのお友だちが紹介していたのが、
三宅香帆さんの『「好き」を言語化する技術』だった。

自分の想いを無かったことにしないことが、言語化する最大の意味

この本には、「好き」を言語化するための具体的なやり方が色々書いてあり、具体的なやり方は、ぜひ本書を読んで確かめて欲しいと思う。
私はそれらの具体的なやり方よりも、次の一文にハッとした。

世間や他人の声に惑わされず、自分の推しに対する想いを言葉にすることができたら、推しに対する大切なものを見逃さずにすむはずです。

「好き」を言語化する技術より

「推し」(私ならSixTONES)に対する想いって、私にとって唯一無二の感情のはず。
誰かに「SixTONESを応援しないと、あなたの命はない!」と脅されたわけでもないし、「SixTONESを応援したら、一生困らないだけの財産をあげますよ」と唆されたわけでもない。

私が彼らを見つけて、私が彼らをいいなって思って、私が彼らを推すって決めたわけです。そこに他者の感情や想いは一切関係ない。
だから彼らを推す中で、私の中に湧き起こる様々な感情や想いは、それがポジティブであれネガティブであれ、誰かにも、自分自身にも否定される筋合いはないもののはず。

もちろん、その想いを外に発信する時には、どんな言葉を使うかは選ばなければいけないけれど、「こんな想いを持って良かったのかな」なんてことは考えなくてもいいのよね。

特にXでポストしようとする時は、他者のポストが雪崩のように目に飛び込んでくるし、なんとなくその話題に対する空気感もあるから、そこに賛同しないといけないような気持ちになる。
文章もエネルギーを纏っているから、1つ1つは小さなエネルギーでも、まとまって押し寄せてくると、かなりの圧力を感じるし、時には潰されそうな気持ちになることも。

でも最終的に世の中に解き放つかどうかは別として、自分の「好き」の気持ちを言語化することは、自分がSixTONESに対して想っていること、大切にしていること、望んでいることを見つめ直すこととイコールになるんだなと。

自分の気持ちを無かったことにしないとは、自分を大切にすること

Xでも何度かポストしたことがあるけれど、自分の中に生まれた感情や気持ちを否定する必要はないんだよね。

だってそれは自然と生まれてしまうものだから。
自分の中に生まれた感情や気持ちを否定してばかりいると、いつしか自分が何が好きなのか、今、どんな感情なのかが分からなくなる。

これは私にも経験があって、「何が食べたい?」「何が好き?」と聞かれても思い浮かばない。でも「なんでもいい」は相手に失礼だから、一生懸命、その場の空気に合うものを考えたり、一般的にはこういう時に何て言うと、その場の空気を壊さず、かつ突っ込まれたりしないだろう?と考えていた。

今振り返ると、なかなかにヤバい(苦笑)
そこから脱するのに2年ぐらいかかったかな。

「楽しい」「好き」「悲しい」「悔しい」などなど、自分の中に感情が芽生えてきたら、それを素直に受け取ってみる。
そしてもう一歩「何が」楽しかったんだろう、「何が」悲しかったんだろうと深く考えてみることが、大事なんだろうね。

好きは好きだし、ムカつくはムカつくなんだけど、その感情が生まれた背景には必ず何かしらの出来事があったはず。
その出来事を思い出して、そこに自分はどんな意味づけ(捉え方)をしたから、好きとかムカつくとか想ったんだろう?

丁寧に紐解いていくことが、自分の価値観を明確にしていくことだし、ひいては自分自身を大切にしていくことに繋がるのだと思う。
個人的には、自分自身を大切にできるようになればなるほど、「推し」に対する不健康な依存は無くなっていくんじゃないかと思っている。

だからこそ、やっぱり「好き」を言語化するって大切なことなんじゃないかな。

紹介されている手法は単に「推し」を語るためだけといった狭い範囲ではなく、仕事の場でも使えるものがいっぱい。

だからタイトルだけ見て、「あぁ、オタク向けの本か」と思わず、「書く」でも「話す」でも誰かに対して発信する人には、ぜひ読んで欲しい1冊。

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