[2021-05] クオリアと人工意識
読了。最後まで読むとなんとかどうにかした着地感的読後感だけれども、正直言うと後半戦の中盤あたりは、難しいというよりも怖い話をしていたように思う。
前半は”意識”と”知性”について、意識と知性は別に動いているか?意識に生じて知性が発揮されているか?知性に生じて意識が発揮されているか?知性→意識については、たしかに無いように思われるが、この2つを分けて考えることに私はとても難しさを感じた。特に意識があることを意識した後は知性支配になっているように感じて、その瞬間を感じる取ることに意識を持つことの矛盾感がある。ただ、自分を離れて、例えば過去の行動に対して、意識と知性を分離するというふうに考えるとそれは案外簡単にできることかもしれない。 しかし、それは知性による意識と知性の分離理解。
また、知性による人間行動が認知行動が、ベイズ統計的であるかについては、たしかにその出現の仕方に違いはあっても、結果として統計的に処理され、人間が選択するだろう選択をコンピュータが計算可能になるというのは十分に考えられるように感じた。ただ、そのような人間が行う選択の機会というのは、あまりその個人にとって楽しくないこと、生活上必要不可欠だがただそれだけのこと、選んだ後に悪いことが起きないようにと考えるようなことなどが中心なようにも感じる。簡単に言うと楽しくないことの集合。直感的に瞬間的に道をそれるような選択には、計算が及ばない。けれども、実際の人間生活は、その”粋”を含むような選択や場面というのが、ほんの一部だとも言えるわけで、だいたいの人間が消費する時間の中での選択にコンピュータの計算が入り込んでくるのだろうなと感じた。そして、もう一つ、今の(AI革命)的な世の中の流れは、人間の方にコンピュータで計算可能なように振る舞うことを求める風潮というふうに捉えることもできるなぁと、読み進めながら考えていた。
目覚めのベイズについてはこちら。
繰り返しになりますけど、中盤すごく怖い話と、難しい話と、茂木 健一郎は毎日元気なのかな?というようなある種の怒気が含まれていると感じましたので、元気な時に読むのが良いかと思います。
ベルクソンと純粋記憶については、こちらの動画が良いかと思います。