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SUNTORY「角瓶」

長期に渡って凋落傾向にあったウイスキー市場を救ったサントリーウイスキー「角瓶」による「角ハイボール」ブーム。
時代を牽引し、空前のハイボールブームが起きたことは記憶に新しく、今やハイボールは当たり前の定番ドリンクとして、飲食店のみならず、家庭でも定着しています。
今回はウイスキー界の救世酒であり、ハイボール復権の申し子「角瓶」について掘り下げていきたいと思います。

サントリー角瓶(かくびん)は、サントリースピリッツが製造し、サントリー酒類(二代目)が販売する国産ブレンデッドウイスキーの一種であり、現在の日本における売り上げNo.1のウイスキー銘柄です。
「角瓶」ブランドの歴史は既に80年を超えるロングセラーで、現在に至るまでベストセラーを兼ねている点が大変興味深い商品でもあります。
「角瓶」というウイスキーブランドの歴史は、国産ウイスキーの変遷の振り返りであり、日本におけるウイスキーの潮流がハッキリと見えてきます。

「角瓶」と聞いて誰もがすぐに連想するのは、ボトルの独特な形状ではないでしょうか?
今でも角瓶のシンボルである亀甲模様のボトルの造形は、現在のサントリーの前身となる壽屋、そのチーフデザイナーだった図案家の井上木它(ぼくだ)が、鳥井信治郎から九州土産に贈られた薩摩切子の香水瓶を基に着想し、安易に薩摩切子のイメージだけで完結させず、そこに縁起の良い亀甲紋を融合した「日本らしさ」をデザインに詰め込んだ秀作です。
当時、鳥井はボトルデザインについて「世界に通じるオリジナルな日本的デザイン」という抽象的で難しい注文を井上木它に対して投げていました。
上がってきたデザイン案を見た鳥井が「亀は万年と申します!井上はん、ホンマにエエ仕事をしてくれましたな!!きっとこの瓶は万年も残りまっせ!?」と歓喜の声を挙げたという逸話が残っています。
長寿の象徴として縁起のよい亀甲模様は、ウイスキーの琥珀色を美しく反射させ、欧米のウイスキーボトルとは全く異なった存在感を放っていて、酒瓶としての大人っぽさと洗練された形状は現在もそのままに保たれています。

そして「角瓶」におけるもう一つのアイデンティティは、そのラベルにあります。
瓶の肩部分に貼られたラベルと楕円形の正面のラベル、そのどちらも視覚的に映える黄色に彩られていて、ラベルには墨痕鮮やかな「S.Torii」のサインが入っています。
(※近年までは肩ラベルに「S.Torii」の創業者印が描かれていましたが、現行ラベルでは正面のラベルに移動しています。)
このサインはデザインが完成した時、井上がマスターブレンダーとしての鳥井に敬意を表して書いてもらったもので、ラベルには現在も鳥井のサインが残されていて、このラベルに書かれたサインこそ稀代の傑作ウイスキーを世に送り出した鳥井の存在証明そのものであり、角瓶を販売する上で無くすわけにはいかない創業者のお墨付きの印でもあります。
発売当時、角瓶のラベルには「Suntory Whisky」と記されているのみで、ラベルをくまなく探しても「角瓶」という表記や商品名はボトルのどこにも書かれてはいませんでした。
亀甲紋をあしらった独特なデザインのボトルが角型であったことから、その形状を見た誰からともなく自然発生的に「角瓶」という愛称で人々から呼ばれるようになったそうで、実はごく自然に定着した名称なのです。
たとえラベルには書かれていなくとも、瓶の形から角瓶としか呼びようがない優れたデザインが商品に普遍性を与えることを井上木它の仕事が物語っています。

では、ここからは「角瓶」の歴史について掘り下げていきたいと思います。

サントリーの創業者である鳥井信治郎は「舶来品(スコッチ)に負けない日本のウイスキー」を造ろうと1923年に山崎蒸溜所を開設しました。
当時、国内初となるモルトウイスキーの蒸溜所建設は、当時の壽屋では出資者からの反対は勿論、鳥井以外の取締役全員が反対したほどの冒険的な事業でした。
しかし、鳥井信治郎は数々の反対意見を押しのける形で、国産ウイスキー製造の道を邁進します。
スコットランドで本場のスコッチウイスキーの製造を学んだ竹鶴政孝を山崎蒸溜所の初代工場長として招聘し、1924年(大正13年)より新規事業としてウイスキーの製造を開始します。
その後も続いた壽屋社内におけるウイスキー事業に対する批判と風当りの中、複雑な味の調整ができないまま半ば強引な形で1929年(昭和4年)に国産ウイスキー第1号となる「サントリー白札」を発売しました。
しかし「白札」は当時の日本人の味覚には未体験だったウイスキー特有の煙臭さが影響し、販売は思いのほか振るいませんでした。
翌年の1930年(昭和5年)に再挑戦として「赤札」を発売するも、またも不振に見舞われて資金繰りは逼迫し、1931年(昭和6年)にはウイスキーの仕込みさえできない窮状に陥ってしまった程の体たらくでした。
1932年(昭和7年)に「サントリー十年ウヰスキー 角瓶」を発売後、1934年(昭和9年)の竹鶴の契約満了に伴う退社を経て、鳥井はウイスキー製造の方針を抜本的に見直すことになります。
それは明確な「脱竹鶴」路線であり、収益が上げられるウイスキーの開発を大前提として、十分な品質は保持しながらも日本人の舌に合う味わいを模索するという標無き苦難の道のりでした。
そして1935年(昭和10年)には「サントリー特角」を発売し、徐々に成功への手応えを掴んでいく道筋を立てていくことになります。
(※なお、ここで登場した「サントリー十年ウヰスキー 角瓶」「サントリー特角」は何れも現在の「角瓶」の源流ではありません。)

「白札」の失敗から期間を置くこと8年、鳥井のスタンスは竹鶴主導での草創期から変わらず、あくまでも「日本人の味覚に合ったウイスキーを追求」を前提としていました。
鳥井は、長らく貯蔵・蓄積された原酒をブレンディングベースに1937年(昭和12年)10月8日、井上木它がデザインした亀甲模様の瓶に黄色いラベルを添えた上級ウイスキー「サントリーウヰスキー12年もの化粧瓶入り」を発売。
これこそが、後に「角瓶」と呼ばれるウイスキーの源流となるボトルです。
ただ、この発売当初の「サントリーウヰスキー12年」という名称は、現在の日本のウイスキーにおける年数表示の定義とは大きく異なり、原酒の一部に12年物を使っていた程度の中身であり、スコッチなどの規準に照らし合わせても誇大気味の名称であったことから、実はそう長くは使われていません。

(※ウイスキーにおける「12年」など年数表記の意味は、瓶詰めする前に複数の熟成年数の原酒をブレンドした時、その中で最も若い原酒の熟成年数を記載しているもので、最低でも表記されている年数以上の原酒をブレンドすることが表示の条件となります。
最も若い原酒の熟成年数がラベルに表記され、商品名の一部となります。
例えば、年数表記が「12年」であれば、ブレンドされている原酒の全てに12年以上の原酒が使用されているということになります。)

しかし、この「仮初めの12年モノの角瓶」は発売後、消費者の心を掴むことに成功します。
舶来盲信でスコッチ至上主義の好事家たちも、その飲みやすさと味わいの豊かさに魅了されたそうです。
その高評価は「白札」の失敗以後、常に学び続けた鳥井信治郎のブレンド技術とバランス性、その賜物でした。
ウイスキー事業が失敗したら壽屋は倒産しかないという危機的状況下で、日本が準戦時体制に突入した背景などもあり、舶来ウイスキーが輸入停止になったことで、「サントリーウヰスキー(現在の角瓶)」は日本国内で順調に売り上げを延ばし、思いもよらぬ高評価を獲得することとなりました。
当時、損失を重ね続けていた壽屋のウイスキー事業は、この初代「角瓶」が軌道に乗ったことで抱えていた損失を一掃するほどの成功を収めることとなります。

では何故、成功したのか?
当時、所謂「本物」と言われた19世紀末のスコットランドのウイスキー生産者たちの多くは雑貨商や食料品店から立身出世し、本物を見極める感性を磨く経験を積み、ウイスキーの名品を世に送り出していました。
当時の鳥井の姿は、その「本物」と言われた先駆者たちの出自に通じるものがあり、高級な輸入嗜好品を扱いながら本物を見極める感性を磨く機会と時間は実に潤沢でした。

確かに鳥井も当初は竹鶴正孝からスコッチの製法を学び、本場スコットランドの流れを追従しましたが、結果として上手くいきませんでした。

しかし、元々の需要自体が存在しなかった日本の現実を直視し、日本人の嗜好を思い、香りと味わいを磨き、年月を重ねながら品質を改良し、次第にスコッチの鎧を脱ぎ捨て「日本のウイスキー」へとブレンドを変貌させていきました。
鳥井が指揮を執り、幾度もピートの炊き方を変え、原酒のブレンドも試行錯誤を繰り返しながら完成させた原酒は、「白札」の時には決定的に不足していたブレンドの知識と経験値不足の積み上げだけでなく、原酒の総量の少なさや熟成度の低さの解消に至るまで「白札」という失敗の問題点、その全てを解消した快作でした。
基本ブレンドに苦心し、その原酒を特急列車の食堂車やバー、他にも銀座の百貨店やイベント会場などにも積極的に持ち込み、色々な人にサンプル試飲をしてもらい改善点のヒントを仰ぐなど、そこから先の市場の反応を予め調査する努力量を乗せたことで、試行錯誤の末に完成した希望のウイスキー。
苦節を重ねた鳥井の初志がついに実現する運びとなっていたのです。
鳥井の商才に基づいた「本物を見極める感性」は、日本人の繊細な味覚に合ったしなやかな「日本人に寄り添ったウイスキーの香味の創造」を完成させ、ウイスキー事業の損失を一掃するほどの成功を収めることとなったのです。

日本人好みの「日本のウイスキー」として成功を収めた「サントリーウヰスキー」は、その評判によって日本海軍への大量納入に成功します。
軍納品として「イカリ印」の特製ウイスキーを発注された壽屋は、この流れによってウイスキーの生産に必要な原料となる穀物等の供給の優遇措置を受けることができたおかげで、戦時下でも生産を継続できたのです。
「サントリーウヰスキー」が「海軍指定品」となった事で大きな追い風を得た壽屋のウイスキーは日本海軍だけに留まらず、日本陸軍でも愛飲される様になりました。
その端的な例として発売開始から約1年半後の1939年(昭和14年)5月には兵食品の調達、製造、貯蔵および補給などを行なった機関である「陸軍糧秣廠(りょうまつしょう)」が関東軍に野戦酒保用として大量に送付した嗜好品の品目の中に「サントリーウヰスキー(角瓶)」の名で四合瓶(720ml)9600本が納品されている記録が残っています。

この「サントリーウヰスキー」の成功と評判の獲得は単に「軍への納入品」という巨大な軍需販路を得たというだけでなく、物品統制が非常に厳しかった太平洋戦争当時においても、壽屋のウイスキー事業が「軍需品」という理由から「軍用ウイスキーの製造」というお墨付きを得たという事実が大きな追い風になったことは間違いないと言えるでしょう。
余談ですが、この勢いに乗って1940年(昭和15年)には、さらに上級のブレンデッドウイスキー「オールドサントリー黒丸」(後のサントリーオールド)を完成させましたが、さすがに戦時下の審査では当局より贅沢品と識別されてしまい販売許可が下りることなく、発売は戦後の1950年(昭和25年)まで遅れることとなりました。
この贅沢品と識別されてしまい販売許可が下りなかった「オールド」発売までの期間「サントリーウヰスキー(角瓶)」は壽屋の最上級ウイスキーとして市場に確固たるブランドイメージを確立していきました。
戦時中に陸海軍に従軍した兵士の中には戦地で日本製とは知らずに「角瓶」でウイスキーの味を知り、戦後に帰国して国産ブランドであることを知ったという軍属も多かったということです。

発売当初から好調な売れ行きを示した壽屋の救世酒「角瓶」は酒好きの庶民にとって「憧れのウイスキー」という位置づけだったそうで、特別高価ではないが、さりとて安くもなく、少し背伸びをして飲むウイスキー、というポジションだった様です。
既に壽屋のウイスキーを象徴する銘柄となっていた角瓶は高度経済成長期のシンボルであり「出世したら角瓶」というフレーズが生まれるまでに支持され、順調に売り上げを伸ばすこととなりました。
高度経済成長による好景気によって、日本国内における生活様式が加速度的に西洋化し、日本人の多くがアメリカ映画に出てくる様なバーで一杯やることに憧れる時代となりました。
その背景にあったのが大衆バーの出現で、戦後復興が落ち着きを見せ始めた1955年(昭和30年)頃から盛り場にはお酒を楽しむバーや居酒屋が次々と現れ、仕事帰りのサラリーマンたちが集まる都会のオアシスとして活況を呈するようになりました。
当然、壽屋も迅速に動き、自社製品を専売する場としてメーカーが直接的にバックアップするスタイルのトリスバーやサントリーバーと呼ばれるバーをチェーン組織化して、積極的に支援しました。
人々はバーでトリスから飲み始め、角瓶、そしてオールドへと酒のグレードを上げていくことが、成功者としてのステータスと様式美として浸透していきました。
この時代、角瓶の出荷数は何と年間50万ケースにも達し、トリスやサントリーの名を冠したスタンドバーの数は全国に35,000軒を越えるまでに成長を遂げ、空前のウイスキーブームが巻き起こっていました。

しかし、その一方で時代が進むにつれ、角瓶を取り巻くウイスキーの市場自体が徐々に縮小傾向へと転じていました。
そして1980年代に入るとウイスキーに代わり、より庶民的な酎ハイが市民権を得て台頭してきたことや、サントリーが扱う洋酒においても、ワインなど他の酒類にスポットがあたったことで消費者の好みは徐々に拡散し始めました。
特に若い世代はビールや発泡酒など「とりあえず生(ビール)!」と、注文する軽いテイストのお酒を好むように嗜好が変化していったことで「洋酒と言えばウイスキー」という時代は次第に終焉を迎えることになりました。
1990年代に入った頃には既に時代は変容していて、当時の若い世代にとってウイスキーという存在は自分たちの親世代が飲む酒であり「バーで飲むのはカッコイイけど自分が飲むには早過ぎる」などと言わせる程にまで、ウイスキー文化は凋落していましたが、それでも角瓶は一定の存在感を示して長い雌伏の時を過ごすことになります。

そして、ウイスキーが長い冬の時代へと突入するきっかけとなった1989年(平成元年)には「角瓶」も例外なく大きな変化を求められることになりました。
酒税法上での従価税制度及び級別制度が廃止され、酒類全般の価格が一挙に引き下げられたのです。
当時、角瓶も小売価格が従来の3500円から1980円に引き下げられ、一気に庶民的な存在になりましたが、逆に安価な大衆向けだったウイスキーたちは値上げとなり、ウイスキー市場全体を見れば混乱と混迷の時代となってしまいました。
この酒税法改正による大幅な割安感の創出によって1990年代の角瓶の出荷量は1950年代の年間50万ケースの約6倍に相当する年間300万ケースを出荷するまでの成長を成し遂げましたが、その裏側では「級別表記」があったウイスキーというお酒全体に対してある種の"ステータス性"を感じていた愛好家たちからの支持を失うこととなりました。

酒税法上での従価税制度及び級別制度が廃止された1989年(平成元年)、角瓶は価格面での変化だけでなく、その中味についてもブレンド構成を大きく見直すことになり、大幅なリニューアルを遂げることとなりました。
既に時代の潮流の変化をいち早く感じ取っていたサントリーは、日本人の食がよりライト嗜好に変わりつつあったことを受け「角瓶」のアルコール度数を43度から40度に引き下げたのです。
前述の値下げと度数変更により「角瓶」はコクがありながらもすっきりとキレの良い香味を実現したわけですが、この大幅な値下げとブレンド変更を境に大衆酒としてのイメージ化が一気に定着したことで、高度経済成長期のシンボルでもあった「出世したら角瓶」という高級ウイスキーの風格は損なわれてしまいましたが、それと引き換えに「手軽な食中酒」という新たな立ち位置と認知度を獲得することに成功し、庶民派ブランドとしての再興は一定の成果を上げました。

※おじいちゃん・おばあちゃん世代が「角瓶」を高級酒と認識していて、「最近の若者は角瓶みたいなエエ酒をがぶ飲みしよるが、ワシらの若い頃は角瓶は高嶺の花でなぁ~」と、角瓶が高級品だったという昔の話を聞いても『その辺の居酒屋でハイボールで飲む角瓶が高嶺の花!?』と、全くピンとこない世代間ギャップを感じたことはないですか?
その原因こそ前述の1989年(平成元年)に行われた酒税法改正による大幅な小売価格の引き下げに伴う角瓶の大幅な路線変更が、ある種のターニングポイントとなっているのです。
昭和の「出世したら角瓶」の認識と、現在のハイボール需要がメインの大衆酒「角瓶」しか知らない若い世代に、違和感と認識に大きな隔たりが存在しているのは、1989年(平成元年)を境目として行ったイメージチェンジが原因であり、違和感の正体と言えるでしょう。

平成の世も落ち着きを見せ始めた頃、「角瓶」を語る上で絶対に外すことの出来ない、ある出来事が勃発します。
それは特許や商標に関する法律関係者の間で特に話題となった「角瓶事件」と言われる係争です。
既に人々の間で「角瓶」が「かくびん」と長らく呼ばれ親しまれていたことから、サントリーは1994年(平成6年)5月に「角瓶」の正式な商標登録に乗り出しましたが、商標出願の際に「角瓶とは瓶の形状を表示しているだけ」として、あっさり拒絶査定とされてしまいました。

瓶の形状を表現したに過ぎない「角瓶」という文字に商標の価値があるか?

という争点の下、特許庁との商標登録を巡る長い戦いは始まりました。
サントリーは「角形ボトル入りのウイスキー」を指定商品として出願したものの、特許庁の回答は「形を直接的に表現」した一般用語である「角ばった瓶」=「角瓶」という商標を一企業に独占させると、ガラス瓶の形状自体を独占させることに繋がるため、妥当ではないという判断でした。
サントリー側もそういった理由で商標登録が受けられないという点は素直に認めざるを得ませんでしたし、特許庁もサントリーが過去の広告に長年「角瓶」という文言を使っていた事実は認めましたが、議論は平行線のままで登録には至りませんでした。

特許庁の拒絶査定に対し、サントリーは東京高裁に審決取消請求訴訟を起し、過去のあらゆるデータや広告等の資料を駆使し、いかに国民に認知されているかという資料を提出し、対抗しました。

しかし、特許庁が拒絶査定を下した理由はそれだけではなく、角瓶の広告における表記実態が「角瓶」単独表示でなかったことが常態化していた点で、「サントリー角瓶」という連続的表記こそが、特許庁が考える大きな問題点でした。
ハウスマーク(社証)である「サントリー(または壽屋)」と、瓶の形状を表している「角瓶」がハウスマークと結合して一体化して連続・連結して使われていたため、消費者は「サントリーという文字を認識して商品を特定した」のであって、その場合に「角瓶という文字の存在価値は無い」というのが、特許庁の解釈と主張でした。

ところが商標法には例外があり、通称であれ愛称であれ、通り名を使い続けた結果、それが需要者の間で有名になった場合には、元来は商標と認められない用語でも特別に登録を認める、というもので、サントリーはその点を主張して登録を求めました。
そして、そこに「角瓶」の文字が「サントリー」又は「サントリーウイスキー」の文字と連続して表記されている形態であっても「角瓶」の文字の独立性を主張しました。
では何を以って「有名」で、どんな「証拠」が必要だったのか?
サントリー側が提示した構成要件は大きく2つでした。

先ず、通り名を使い販売を続け実績を積み上げた「販売の歴史」で、サントリーは過去のデータから、自社が国内メーカーでウイスキー販売量が日本一であることや角型瓶入りのウイスキーの販売を昭和12年から連続的に続けていることを提示しました。
昭和25年から係争当時の平成10年まで販売した実績である合計6646万ケース(12本入り)の販売量も併せて提示し、係争当時の直近10年間においても毎年300万ケースを「角瓶」として販売しているデータを数字として示しました。

次に「長年の広告展開」で、サントリー側が提出した証拠を見ると、昭和28年の広告には「角瓶」という文字が既に使用されていて、そこから新聞や雑誌だけでなく、チラシなどの販促物や景品に至るまで、その広告投下量は膨大な量となっていました。
さらに、昭和37年から現在まで長年に渡って放送されてきた「角瓶」のテレビコマーシャルの継続を積極的にアピールすることで、視覚的効果や商品イメージと認識性を主張しました。

以上の各事実を総合し、東京高裁は次の通り判決を下すこととなりました。

本願商標と同一と認められる商標が、原告(サントリー)により、遅くとも昭和28年ころから審決時に至るまで、新聞や雑誌の広告及びテレビコマーシャル等において、相当量が発信されている。
本件製品(角瓶)につき、我が国のほぼ全域にわたって多数回使用されており、その使用の結果、需要者において上記商標が使用された本件製品が原告の業務に係る商品であることを認識することができるに至っているものと認めることができる。

つまり「角瓶」の文字が原告ハウスマーク「サントリー」と連続して使用されている態様であっても、取引者や需要者はハウスマークと結合して一体化した「サントリー角瓶」等の構成によりなる商標が使用されているのではなく、「角瓶」の文字からなる出願商標自体が使用されていると認識すると認めるのが相当である。
と、使用による顕著性が認められた判決が出たことにより、平成14年1月30日に東京高裁は角瓶を商標登録することを全面的に認めました。

【出願日】平成6年5月17日(1994.5.17)
【登録日】平成14年4月19日(2002.4.19)
【登録番号】商標登録第4561212号(T4561212)
【登録商標】角瓶
【商標権者】サントリー株式会社

それは商標出願から8年後の事でした。

「角瓶」の商標登録がようやく認められた一方で、2000年代においても若年層のウイスキーに対するイメージは「マニアが蘊蓄を語りたがる面倒くさい酒」やら「上司に説教されながら飲む酒」など惨憺たる有様でしたが、いよいよ時代が動き出します。
そう、それが現在へと続く「角ハイブーム」の到来です。
しかし、角ハイボールのレシピ自体は1990年代にも継続的に提案され続けていましたが、前述したウイスキーに対するイメージの悪さなどもあり、当時は戦略的に発信しても全く世の中に響くことはありませんでした。

当然、昔から「ハイボール」「ウイスキーソーダ」という飲み方は認知されていましたが、あくまでもバーで愉しむ程度で、一般的にウイスキーの飲み方と言えば「水割り」が圧倒的でした。
では、何故、あまりにも唐突に我々の前にハイボールが現れ、一大ムーブメントを巻き起こし、日本中に認知の定着が至るまでになったのでしょうか?
あの圧倒的ハイボールブームとウイスキー復権の仕掛け人、それはサントリーの「グルメ開発部」という他のメーカーには無い特異性を持つ部署が仕掛けた一大プロジェクトでした。

サントリーの「グルメ開発部」という部署は営業部隊と連携しながら、飲食店の業態開発やドリンク・フードメニューのトレンドを創っていく部門として、業界ではよく知られている特殊部隊ともいえる専門部署です。
東京・四ツ谷にグルメ開発部専用のテストキッチンを持ち、そこにドリンクスーパーバイザー、フードスーパーバイザーという元バーテンダーや元シェフといった現場経験者と、主に企画を行うディレクターと呼ばれる3本柱がグルメ開発部の人員構成で、その数は東京と大阪で約30人程度です。
総合酒類メーカーの中でもこういった専門組織は極めて稀有で、サントリーにおける業態開発や各種提案に加え、研修などのサポートも積極的に行う外食専門の全方位的裏方部隊です。
創部当初からのコンセプトは「洋酒が売れる店づくり」「ウイスキーが売れる店とはどういう店か」を追いかけ、継続的に掘り下げてきたそうです。
苦しかったウイスキー需要の流れが一気に変わったのが、リーマンショックで不況の波が押し寄せた2008年でした。

当時、グルメ開発部はタワーから注いだハイボールをジョッキで飲むスタイルを前面に打ち出した「角ハイボール酒場」業態を開発し、その仕掛けに動いていました。
グルメ開発部は角瓶の飲み方の新たな提案と、それを提供するための機材の開発を一から手掛け、その主軸となった機材が、高品質なハイボールを安定的に供給するための機材として開発した「ハイボールタワー」と呼ばれるハイボール専用サーバーでした。
ハイボールタワー開発の重要課題は「超炭酸」であり「キンキンに冷えていて」かつ「味がブレない」という3つの重要ポイントでしたが、グルメ開発部はその課題全てをクリアして「角瓶ハイボール」は世に送り出されることとなりました。
この「ハイボールタワー」という機材開発の成功体験が後の道筋を照らすと共に大きな試金石となりました。

その設置第一号店が銀座のコリドー街にある「立呑みマルギン」と呼ばれている店舗で、グルメ開発部が仕掛けた新ハイボールブームの起点であり「角ハイボール酒場」発祥の店でもあります。
この店舗における「ハイボールタワー」導入前のハイボールの注文は、月に3杯程度が関の山だったのが、このハイボールタワーの登場により1日に約100杯を売り上げる世界を実現できるようになったと言うのですから、誰もが驚きを禁じ得ない成功だった様です。
その成功の裏には単なるサーバーの導入だけではないグルメ開発部が開発したレシピの存在もありました。

「角瓶1に対してソーダ4の黄金比率&カットレモン先搾り」

このレシピとハイボールタワーの組み合わせが若年層の嗜好とマッチしただけでなく、長らく生ビールなど軽いテイストのお酒をメインとし、ウイスキーを敬遠していた層の取り込みに成功しました。
その後「立呑みマルギン」では1日300杯(コロナ前実績:2017年度)を売る程の看板メニューへと成長しています。

この「立呑みマルギン」での圧倒的成功を機にグルメ開発部はスピリッツ営業部と本格的に連携し、ハイボール酒場の活動に注力し、完全に舵を切る決断をします。
サントリーは成功の報を受け、全社を挙げて「ハイボール」を推したマーケティングと拡販をスタートし、翌2009年には早くも目に見えた成果を挙げ、現在ではビールと並ぶ「1杯目に飲まれるお酒」の地位を築き上げました。

そしてそのハイボールブームの主役となったのが「角瓶」だったのです。

サントリー社内において、この角瓶のハイボール戦略はウイスキーのブランド力を単に毀損させて終わるのではないかという懸念も多くありました。
しかし鳥井信治郎の創業者精神『やってみなはれ』というチャレンジスピリットで、空前絶後のブームを巻き起こすことができたのです。
今では「ハイボール」と聞いた多くの人が角瓶のハイボールを連想するようになり、角ハイボールを食事中に楽しむ人(食中飲用率)も、以前とは比較にならない程までに増加しましたが、その反面ブームが過熱の一途を辿った結果、2010年6月以降は角瓶の原酒不足の懸念から出荷量が調整される事態になりました。
それは「角瓶」全体の需要と供給のバランスが崩壊するほどの成功を収めた弊害でもありました。

2010年、初代ハイボールタワーの盛況を受けて、タワーのガスボリュームを初代よりも引き上げた2代目ハイボールタワー「ゼウス」を開発し、角ハイブームを更に加速させることに成功しました。
その「ゼウス」におけるガス圧の高さというのは、シャンパンのガス圧である5.0~6.0と同レベル以上で、偽りの無い「超炭酸」の世界を実現した飲みごたえは確実に世の人々を魅了しましたが、同時に角ハイブームの裏側でグルメ開発部が苦悩した逆風もありました。
それは居酒屋主導で「コーラ割り」や「ジンジャー割り」など、よりライトなバリエーションメニューが登場したことです。
それら派生種はウイスキーハイボールでありながら「割り材に頼るチューハイ路線」であり、グルメ開発部が意図した方向性とは全く違う解釈でした。
何より本来の目的である角瓶の美味しさをアピールすることが出来ない逆方向に進み出しつつあった流れに危機感を持ったグルメ開発部は、事業部方針もあり即座にブレーキをかけました。
再度、角瓶を筆頭とするハイボールのイメージ戦略を見直し、甘味を足した割り材に頼らない様に天然水のソーダを使い「割り材ではなくウイスキーの銘柄に繋げていく戦略」を打ち出し、あくまでも「ウイスキーが主役」という明確な方向性を堅持します。

2010年以降、ウイスキー市場規模はそれまでの2倍以上に成長していますが、そのブームを先頭で牽引してきたのは紛れもなく「角瓶」です。
日本人の味覚に合わせた日本のウイスキーの原点であり、現在のウイスキーブームも育てた象徴的なウイスキーが角瓶であり、ゼロから角ハイブームを仕掛け、大きなウイスキートレンドを創り出したグルメ開発部は角瓶と共に歩み、飲食店に寄り添う格好で今に至っています。

数々の艱難辛苦を乗り越え、それでもなお本格的なウイスキーの味わいを崩すことなく、日本におけるウイスキーのスタンダードとして成長し、愛されるようになった角瓶。
その成功の影にはオールド・リザーブ・ローヤルといった後発の上位ブランドが増える中でも、敢えてステップアップせずに角瓶に拘った『角瓶党』と呼ばれる熱意ある人々に支えられ、根強く支持され続けた経緯もあります。
現在の角瓶は山崎蒸溜所や白州蒸溜所のバーボン樽原酒がバランスよく使用されていて、甘く華やかな香りが印象的ですが、『角瓶党』が挙げる角瓶の飲み飽きない理由、それは風味における「引っ掛かり」と言われるもので、ブレンダーが一般的に「フック」「キック」と呼んでいる要素がツボにはまるのだそうです。
それらの要素に加え、揚げ物などの料理と相性抜群なのは、ドライな後口がハイボールのキレを増加させることで、炭酸のウォッシュ効果で料理の味わいが引き立つからだそうで、現在の角瓶における原酒のブレンドレシピは毎年20数回以上書き換えられる程に複雑です。

では、どのように書き換えたのか、具体例をあげましょう。

「バーボン樽で熟成させた山崎モルト」
これは今の角瓶のブレンドに欠かせないモルト原酒の1つです。
香味の特徴は、力強いウッディネス。
そしてこの“ウッディネス”こそ、“力強さ”すなわち“キック”と“ガツン”を生み出す源の一つです。
けれど、同じ「バーボン樽の山崎モルト」であっても、時にはウッディネスの強さがやや足りない原酒も生まれます。
そんな時はどうするか?
この場合、バーボン樽山崎モルトの配合を増やしても良いのですが、例えば他の手としては、「シェリー樽原酒」の配合をわずかに増やす。
しかし、いずれにしても何かを増やせば、何かを減らさなくてはなりません。
そこで、さまざまな試作品をつくってテストブレンドを繰り返し、一つのレシピを完成させます。
これをひと月の間に二度三度、、、こうしていると一年が経つのはあっという間。
まさに光陰矢の如し。
発売以来およそ80年、角瓶のブレンドを守ってきたかつてのブレンダーたちも同じ思いでいたことでしょう。
"福輿 伸二氏のエッセイより抜粋"

食中酒としての地位の確立だけでなく、結果的にあらゆる要素を取り込み存在感を示して世代を問わず支持層を拡大した結果、国内売り上げNo.1ブランドとして君臨しているのです。

最後に1989年(平成元年)4月のウイスキー等級廃止と税制改正時の価格低下に伴う角瓶の大幅なリブランド化と大衆酒としての普及に合わせて開発・展開されていた本来の「角瓶」である「黄色い角瓶」以外の姉妹商品の流れを追って締めたいと思います。

先ず、角瓶派生品の先兵として1992年(平成4年)に市場に投入されたのが、ホグスヘッド樽で熟成された白州蒸溜所のモルト原酒をキーモルトとしてブレンドし、尚且つ辛口でスッキリとした味わいを持つ「白い角瓶」通称「白角」が誕生しました。
その後、2016年4月に行われたリニューアル以降は「CLEAR & SMOOTH」を命題に大幅にブレンド構成が見直されたため、当初から持っていた「淡麗辛口」のコンセプトから路線変更となり、2019年3月を以って一旦休売扱いとなっています。

次に登場した角瓶派生品は1999年(平成11年)に発売された黒を基調としたキャップとラベルが印象的な「味わい角瓶」で、通称は「黒角」
2007年(平成19年)にはパンチョン樽で熟成された山崎蒸溜所産のモルト原酒をキーモルトとしてブレンドが見直され、アルコール度数も昔の角瓶の度数と同じ43度に引き上げられ、リッチな飲みごたえをアピールしました。
リニューアル後は「角瓶<黒43°>」というハード路線を展開するも、残念ながら2016年4月を以って終売となっています。

そして2013年(平成25年)には「角瓶」の最上級品として開発された、専用のスクエアボトルに青いラベルが特徴的な「新プレミアム<43°>」が市場に投入されました。
この通称「プレ角」は長期熟成原酒を使用し、拘りを前面に押し出したプレミアムラインとして市場に投入されましたが、平成における「角瓶」に対するイメージ自体が戦後の高級ウイスキーのそれではなく、既に角ハイブーム後で大衆酒としての立ち位置を確立してしまっていた「角瓶」ブランドと「プレミアム性」が上手く嚙み合わず、黒角同様、2016年4月を以って終売となりました。
派生品としては最も短命な約3年の販売期間でした。

よく「ウイスキーは生き物である」と、言われます。
時代と共に人や文化が変わるように、ウイスキーもまた変わらなければならない、と。
誕生から80年以上もの間、幾多の時代の波を乗り越えた「角瓶」もまた、大きな変革期を迎えています。
それでも「亀甲紋を刻んだ瓶」「鳥井信治郎のサイン」この2つこそジャパン・オリジナルのウイスキーを作ることに一生を捧げた男の信念の証であり「角瓶」が存在し続ける限り、その「信念の証」は継承されていくに違いありません。
日本のウイスキーの歴史を体現しているとも言える角瓶、これからの変化にも注目していきたいと思いませんか?
その角瓶は貴方のすぐそばにあります。

名称:サントリーウイスキー角瓶
種類:ブレンデッドウイスキー
販売:サントリー株式会社
製造:サントリー株式会社
原料:モルト、グレーン
容量:700ml 40%(現行品)
所見:国産ウイスキーにおける知名度・売り上げNo.1ブランド。

【余談ですが、豆知識】
「角瓶」に代表されるサントリー製ウイスキーのオールドボトル(古酒)に共通する流通時期の割り出し方は「住所」です。
1963~1971年流通品の住所は中之島で、これ以前は旧社名の「壽屋」表記。
「堂島浜[通]」表記のボトルは1971~1978年の流通品。
「特級表記+住所が堂島浜」のボトルは1978~1989年の流通が確定します。
スコッチでは古いボトルの方が香味の主張が強い事が多いですが、国産ウイスキーにおいては少し事情が違います。
日本におけるグレーン蒸溜所の完成はモルト蒸溜所の完成よりもかなり遅れ、サントリーの場合は知多(旧・サングレイン)蒸溜所の1973年となります。
それ以前は多くの場合精製アルコールと水がその役割を担っており、特に古いボトルであるほどその傾向が強く、角瓶においても精製アルコール由来と思われる中庸なアルコール感がある程度は感じられますが、その奥から山崎原酒由来と思われる甘さも感じることが出来ます。
また、知多のグレーン原酒と同様に80年代以降から白州蒸溜所のモルト原酒も実用化水準を満たした為か、明らかに80年以前のボトルよりも奥行きのある香味へと進化しています。