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「スマホを見てるふり」を考える

突然ですけど、スマホを見てるフリ、してませんか?

電車の中、エレベーターの中、待ち合わせの時。ふと気づけば、スマホを手に取っている。何かを調べているわけでもない。急ぎの連絡があるわけでもない。ただ、スマホを見ているフリをしているのです。

画面を開いて適当にスクロール。時には同じアプリを何度も開いたり閉じたり。特に意味もなく画面を眺めながら、手は無意識に動き続ける。この行為、一体何のためにやっているのでしょうかね。

例えば、待ち合わせのとき。相手がなかなか来ないなと思いながら、とりあえずSNSを開く。でも、もう何度も同じ投稿を見ているし、新しい情報があるわけでもない。それでもスマホを見ているほうが、「ただ立っている人」になるよりはマシな気がするのです。

エレベーターの中も同じです。あの微妙な沈黙が気まずくて、とりあえずスマホを開く。でも、特に何を見るでもなく、ただ画面を眺めているだけ。何となく画面をスクロールしているだけなのに、なぜか「間が持った気がする」のですね。

一人で飲食店に入ったときも、スマホが手放せない。スマホを見ていれば、周囲から「一人でいる人」に見られない気がするからです。いや、別に堂々とすればいいのに、それでも手持ち無沙汰を回避するように画面をタップしてしまう。結局、スマホの画面よりも、目の前の食事のほうがよっぽど価値があるはずなのに。

電車の中でも、同じようなことが起こります。特にやることはないけれど、とりあえずスマホを取り出す。何か面白いものはないかと画面を開くが、結局ロックを解除しただけでまた閉じる。何を探していたのか、自分でもよく分かりません。

そもそも、「スマホを見てるフリ」の時、人は何を見ているのでしょうね。SNS、ニュースアプリ、メール、メモ帳……何かを開いてはいるけれど、内容はほぼ頭に入っていない。ただ画面をスクロールしているだけで、実際には「情報を探しているフリ」をしているだけなのですね。

もはや「スマホを見る」というより、「スマホを操作している自分」を演出しているだけなのでは?

なぜ、人はこうまでしてスマホを見たがるのでしょうか。ただ立っているのが落ち着かないからか。他人の視線が気になるからか。スマホをいじっていれば、「何かをしている人」に見えるからか。理由はいろいろ考えられますが、どれもこれも「スマホが手元にないと落ち着かない」ことの裏返しなのですね。

こう考えると、スマホはもはや情報端末ではなく、「手持ち無沙汰回避装置」としての役割がメインになっているのかもしれません。

つづいてスマホを「見てるフリ」ではなく、「見られている」ことに意識を向けてみます。カフェや電車でスマホをいじっている時、不意に画面を覗かれている気がすることはありませんか? 知らない誰かの視線を感じて、妙にソワソワする。それでいて、自分もまた他人のスマホ画面をチラッと見てしまうことがある。誰もが他人の画面には興味がないふりをしながら、実はちょっと気になっているのですね。

この現象、特にSNSを開いているときに顕著です。たまたまスクロールしている画面に、奇抜な画像や大胆な発言が表示されると、慌てて画面を閉じる。別に見られて困ることをしているわけでもないのに、なんとなく落ち着かなくなる。スマホを持つことで安心しているのに、同時に「何を見ているか見られるかもしれない」という警戒心も抱えている。この矛盾こそ、現代のスマホ依存を象徴しているのかもしれません。

結局のところ、人はスマホを見ているのではなく、「スマホを通して、自分をどう見られているか」を気にしているのですね。

さて、この記事を読んでいる今も、あなたは「スマホを見てるフリ」ではありませんか?



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