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「ぴしゃり」を考える
ネットのコタツ記事なんかを読んでると、テレビ番組の中で誰かが誰かを言い負かしたときに「○○が××をぴしゃり!」なんて書かれているのをよく見かけます。いやな言葉ですね。
もともと「ぴしゃり」は、扉を勢いよく閉める音や、水が跳ねる音を表す擬音語のはずですが、まるで言葉を物理的に相手の顔面にぶつけているような感じがします。でも、言葉ってそういうものですか?
実際、「ぴしゃり」と使われる場面を思い浮かべてみると、なかなか不快なイメージがします。議論の流れがスムーズに整理されたわけでもなく、相手が納得して場が丸く収まったわけでもなく、ただ「言い負かした感」を演出してぴしゃりとシャッターを閉める。本当に結論が出たのなら、こんなにわざわざ「ぴしゃり!」などと強調しなくてもいいのではないでしょうか。
この言葉が使われるシーンには、妙な「正義感」が漂っています。まるで「正しいことが言われたのだから、もうこれでおしまい!」とでも言いたげです。でも、議論の世界に「ぴしゃり!」と終わる瞬間なんて本当にあるのでしょうか。実際には、その場で静かになっただけで、言われた側は腸煮えくり返ってるかもしれませんね。
記事を書く側としては、「この一言で完全決着!」という雰囲気を演出したいのかもしれません。短い一言で、強い結論を演出できますから。「○○がぴしゃりと一蹴!」なんて書かれれば、まるで圧倒的な勝負がついたかのように見えます。でも、その「一蹴」は本当に効果的だったのでしょうか? 実際の議論では、論破した相手のメンツを潰して全てが決まることなんて、ほぼありませんよね。
もう一つ気になるのは、「ぴしゃり」という言葉が持つある種の攻撃性です。議論の内容を整理するというより、「一発で決めてやった」という感情が先に立っているように見えます。読者もまた、それを期待しているのかもしれません。言葉のやりとりをスポーツの試合のように楽しみたい、そんな欲求がこの言葉を支えているのですかね。
こう考えると、「ぴしゃり!」という表現が使われる場面には、冷静な議論とは違う要素が入り込んでいるようです。言葉をぶつけることが目的になり、「論破」そのものがエンタメ化しているのです。でも、本当に良い議論は、相手を「ぴしゃり!」とやり込めることではなく、理解を深めることのはずです。
とはいえ、「ぴしゃり!」を使いたがる記事はこれからも量産されるでしょう。なぜなら、議論の流れよりも、スカッとする決着のほうがウケがいいからです。実際には、そんな決定的な瞬間なんてほとんど存在しないのに。
結局のところ、「ぴしゃり!」と書くことで、言葉の応酬を安っぽいドラマのワンシーンみたいに仕立てたいだけなのかもしれません。でも、現実の議論はそんなにスッキリ決着しないものですし、本当に決まったことは、いちいち擬音で飾る必要なんてありません。とはいえ、実際の議論よりも「論破された感」のほうがエンタメとしては手軽です。「ぴしゃり!」と書かれた瞬間、本当に場が静まり返るなら、それはそれで見事なものです。でも実際には、誰もそんな簡単に黙らないし、翌日にはまた似たような話題が繰り返されている。つまり、ぴしゃりたがる人と、ぴしゃられる人がいる限り、この茶番は続くってことです。記事を読む分にはスカッとするかもしれませんが、現実の議論では、たぶん誰もそんな音は鳴らしていません。
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