誤解
私は、すごく誤解をしてたんだと気がついたのです。
凡人なので、なかなか文句がたえなかったのかもしれません。
毎週毎週お寺でお掃除していて、住職さんには
一瞬足を止めて声をかけていただくこともなかったんです。
むしろ私から声をかければ、めんどくさそうな顔さえ感じたのです。
お寺って、掃除が行きとどいて 清い場所だとおもっていたんです。
お大師さんの家だから 綺麗であってほしい
ここに納骨されている人たちへ
家族がおとづれた時、綺麗な場所に愛する人がここで守られてるって思ってほしかったんです
お経を読む前に、落ちてるゴミを拾うこと方が優先なんじゃないのか?
なくなった人にお経を読む前に、今生きている人に一瞬でもいいから笑顔にする
または、心を柔らかくすることの方がより重要なんでないかとさえ思うようになっていました。
さて、今日は私気がついたんです。
自分が 心を落ち着ける場所が必要だったんです。
自分のため、感謝されなくても、自分のためと、
自分自身では言ってはいたものの、
それは「そう思わないとやっていられない」と思う自分がいたからなのです。
その時点で止めればよかったんです。文句を言うなら。
さて、今日ふっと気がついたんです。
このお寺に人たちは、きっと私に 集中できる
苦行というか修行ができる場所を提供してくださっていただけで、
お寺さん側は、頼んだわけではないということになるでしょう。
むしろ 感謝しないといけなかったのは、
私の方だったのかもしれないのです。
確かに、私は住職さん「お掃除をさせてください」と
お願いしたのがスタートです。
住職さんに納骨堂のお掃除を頼まれたことで、
私も過信していたのかもしれません。
お寺にいらした方や通りがかりの人に、
最近お寺が綺麗になって嬉しいとか
ありがとうと言って飲み物やお弁当を抱くことで、
何か私は勘違いしていたのかもしれません。
なんと愚かだったのでしょうか。
これからも、お寺には週末通わせていただきます。
静かに、自分に向き合う時間として