ピザトーストが食べたい。 喫茶店のちょっとパンが厚いやつ。 食べたい話をしよう、 できる限り美味しい食事を 食べたいのだと言う、だけの話を。 人間ドックで引っかかった。 要精密検査の文字とともに、ふっくらとした厚みのある紹介状が届いた。 中は見られない。 次に受診する病院の指定はなく、 受診したい病院に紹介状を持参するよう書かれていた。 言うなれば、この紹介状は無敵パスポート。 病院の指定なく、どこでもいいよときた。 (健診しか執り行わない健診センターで人間ド
すごくどうでもいい日記を書いている。 すごくどうでもいいのだが、 今日は時間があるので書いている。 久しぶりにパソコンを開いた。 残業続きで嫌という程触れていたパソコン。 休職してからなんと一度も開いていなかった。 職場の人の名前なんかが 実を言うともう覚えていなくて、 (そんなことある??と、自分でも思う。 思うんだけど、あるんだよなあそんなことが、実際に。) あぁどうしようかななんて思っていたところだった。 パソコンが元々苦手で、文字を打つことも すごく練習した人
新しいスニーカーを買った。トリのやつ。 30年ほど この世界に生きているが、 いまだにこのトリのやつのブランド名が読めない。 読めないけれど、今のわたしは買うし使う。 少し前のわたしなら、 手にするものが生まれた背景や 歩んできた歴史を知った上で 自分のもとにむかえいれるべきだ! といったような思考だった。 少々融通が効かない。そんな感じ。 もちろんベースにある思いというか、 大切にしたいものは変わらない。 でも 〜であるべき! のような 凝り固まった思考は こ
雨の日の傘の中は、居心地がいい。 ビニール傘なら、もっといい。 傘の中から見る世界が 雨の粒で彩られてうつくしい。 夜ならばもっと、うつくしい。 傘の中なら 知らなくていい人の顔も見えないまま 多くの人と行き違える。 わたしの顔も見えず わたしも誰かの 知らなくていい人 になる。 それが心地いい。 8月の朝、 医師に、寝ている時の 血中酸素濃度が92%と知らされた。 寝ている時、脳がほぼ覚醒している状況らしい。 つまり今まで ずっと、起きているらしい。 生まれ
家に植物が増えた。 私は少し、性格が悪くなった。 悪くなったというよりも、今まで出てなかった自分が 表に浮き出てきた感じかと思う。 とにかく、日々心穏やかでない。 だからだろうか、私は植物を買った。 物を買うことは、容易い。 それを生活の中でどのように大切にしていくのか、 別れの時はどうするのか、 そんなことを考えて物を買うのだ。 そんなことの答えが出せないものに関しては 手の中に入れるべきでないと思うし、 身の丈にあっていないのだと感じる。 責任の取れないも
湯船に浸かると幸福度が上がる。 人肌に近い温度に包まれるからだろうか、 そこには安心感がある気がする。 今朝は起きてからいろいろと家事をして、足湯をした。 休日にも関わらず、おもむろに選んだのがパンツスーツで 膝の下まで裾をまくしあげて足湯をする姿も 裸足でもふもふとしたスリッパに足を滑り込ませているのも、 スーツ姿だとなんだか滑稽だった。 最近は仕事のあれやこれやに追われてあっという間に時が過ぎ、 ついでに私生活は今後1年ほど 資格試験に向けて長距離マラソンコースな
あぁしたい、こうしたい、 こうありたい、どうしたい。っていう意思や感情、 持っていたほうがいい時と、 持っていると自分を傷つける時と、あるよね。 きっとひとりでズンズンと歩みを深める人生ならば 道をわりかし正確に歩いてゆく術となるから あったほうがいいよなとおもう。 けれどもどっこい、 まわりのどうこう、という 制約があっての環境下に来ると それはたちまち重苦しいグレーの雲みたいに どんよりと横たわって もやもやと確実に息苦しさを運んでくる。 そういうときはき
部屋を暗めにして 隅に体育座りして 洗濯機の音を聞きながら アイスをたべる。 安全を身に纏いながら 口の中が甘いことだけ考える。 最高のリラックス方法であるし、 頭のなかを空にするのに近いので スッキリする感覚は瞑想にも近い。 薄給だけど、アイスとコーヒーだけは 食べて良いし飲んでいいことにしているので 日々の小さなご褒美として用意している。 もちろん一杯千円くらいするコーヒーは論外だけれど。 個人的な働き方改革として、大企業のはしくれに所属し おおかた定時退社で
こわい。 目の前にあるものの、その内訳がわからないとき 人はそれをこわいと思う。 最近は色々なものがこわい。 そしてそれと同じくらい 色々なものがどうでもよい。 もう少し今の心情にしっくりくる言い方をすれば 社会に出て触れるもののほぼ全てが気に障るけれど 人生が終わる程の危機には満たないので 生きていけている。 そんなところだ。 少しかよわく、もしかすると同情をも さそえるような表現をすると、こわい、である。 最近のどうでも良過ぎる話をすると 無職のうちに
引っ越しをする日の朝が好きだ。 実家を出た日のことは覚えてないけれど。 一人暮らしをしていた部屋から、今の家に来る日のことは よく覚えている。 秋のこんな日だった。 よく晴れていて、もう厚いカーテンを外してしまった窓には暑いくらい陽が注いでいて、空気は乾いていた。 いままでそれぞれ別に暮らしていた彼と同棲を始めるための引っ越しであったので、清々しい気持ちとあいまって こんなふうにカラッと晴れた秋の日は、いい思い出しか生まれないように思えた。 秋のこんな日に、毎年思い出す
言葉で 伝えることができるだろうか。 日々の些細なことまで 伝えられるだろうか。 いつのまにか手がシワシワになっていたことや お弁当のおかずが美味しかったこと 大好きなコーヒーの話や 修理から戻った靴がなぜかサイズが大きくなっていたことも 取り留めもないことまで 持ち得るすべての術を使って 目の前のひとに伝えられるだろうか。 スキルの話ではなく 気持ちの問題、のほうが大きいかもしれない。 秋鮭定食、タテ写真バージョン。 いつも前を向いていたいものだ
すこぶる身体の調子が悪い。 だけど、思い切り降る雨の音は 心地よい。 雨の日はいつも以上に頑張らなくていい という独自ルールが私の中にあるので、 雨の日は好きだ。 昨日はひとつ面接を受けてきた。 なにがそうさせるのかわからないけれど、心臓の音が喉を鳴らして その場にいる皆に聞こえそうなくらいバクバクと波打っていた。 考えてみた。 初対面の人に会うことに緊張しているのだろうか、 それはありそうだけど、普段はここまで緊張しない。 自分のことを聞かれることに苦手意識があるのだ
”マクロを使って家事のルーティーンを自動化しよう!”元気よくそんなことを発言する夢を見た。IoTの時代にも人間にマクロは適用できない。めちゃくちゃな発想だ。 なんか、ヤバい気がする。 通常ヤバいという言葉は使用しないようにしている。 ヤバいという言葉が出た途端思考は停止し、冷静さを少々欠く。つまるところ、頭が悪そうに見えるし、物事がいい展開を迎えるのとはほど遠くに行ってしまうように感じるのが嫌なのだ。(ヤバいという表現を使用している人を批判したいわけでは決してなく、自分は
今晩の夕飯はお好み焼きらしい。 気分転換に noteを書いている。 ここ数ヶ月、割とゆったりと日々を過ごしていたのだが、 急に就活の準備をするモードに突入し、心の中が少しだけ忙しい。 ついでに念願かなって抗体を作る為の注射を打つ事ができたり、なんやかんやのイベント祭り状態なのだ。 昨日は副反応で腕も頭も痛いし、大好きな料理を一人で行う気になれず 同居人に外に食べに行く提案をしていた。そんな時、タイミングよく姉夫婦から イシカゲ貝を捌いて食べないか、寿司にするのはどうか
今、寝室のベッドに寝転がりながら愛用のノートパソコンでぽちぽちとノートを書いている。パソコンを避け続けて生きてきた原始人が、休眠処に文明の産物を持ち込む日が来るなんて。新しいことを吸収する日々は、出来る事が増えて行く日々、分かる事が増える日でもあり、自己肯定感が緩やかに穏やかに上がってゆくので良い。おそらく多くの現代人よりも多くのことができないし、知らないので、何気ない事ですぐ感動する。あぁ、原始人でよかった。。。と心の中で思う日々なのだ。 そんなこんなで、歯列矯正を始めた
さて、何の話だろう。 よくnoteになんだか分からないタイトルだけが書き込まれていたりする。 もちろんいつかのわたしがかいている。 この時はなにかを”全然知らない”状態だったらしい。 今日は8月25日で、以前ならばお給料日であった。 今では様々な機関に対する支払い期限の近くなった いつもと変わらない1日 で、なんと今月は支払額65万越えだった。※無職 以前のわたしの給与を知っている同居人に、「闇金なんかに手、出してないですか。大丈夫ですか。」と、かなりマジなトーンで言わ