きっと
うーん。どうしよう。困った。
僕の部屋のテーブルには、リボンでラッピングされたピンク色の袋が置かれている。いや、それはいい。問題はその中身である。
チョコレートが入っているようなのだ。チョコレートといっても、チロルチョコではない。森永ダースでもない。ガーナでもない。
あのひと、石橋さんが自分で作った、いわゆる手作りチョコだ。さっきちらっと見たとき、チョコの表面にホイップか何かで文字が書かれているように見えたが、怖くて確認していない。
昨日は2月14日だった。ということはつまり、そういうことだろう。参ったな。でも、昨日はうっかり毛布を持っていくのを忘れたので、行かなければならない。
土曜日の夕方5時。僕はそわそわしていた。もうすぐテレビでヒロアカとコナンが始まるからではない。だいたい、ここはコインランドリーの中なのでテレビはない。
大学生になって、ひとり暮らしをはじめて、初めてコインランドリーという場所に来た。古くさいところという偏見があったのだけど、この平和コインランドリーという店舗は最近できたらしく、結構オシャレで、テレビはないが、ドリップコーヒーの自販機がある。
いつもどおりに自販機のボタンを押し、ブラックコーヒーの入ったカップを手に取った。湯気の立つカップを持ったまま、ランドリーを出て、しばらく街を歩いた。
3分も歩けば、駅が見えてくる。その手前の一帯は、屋根のついたちょっとした広場になっていて、そこには、大きな駅によくある、誰でも弾けるように開放されたピアノが設置されている。
毎週土曜日のこの時間にこの広場に来ると、素人の耳でもかなり上手いとわかるピアノの演奏に合わせて、甲高い女性の歌声が聴こえてくる。
ユーミンねえさんの声だ。
彼女は一般人なのだが、このあたりでは有名な弾き語りピアニストであり、SNSやユーチューブでも画像や映像が拡散されている。ユーミンこと、松任谷由実あるいは荒井由実、の楽曲しか弾き語らないことから、巷からはユーミンねえさんと呼ばれている。
ユーミンねえさんの路上リサイタルは、いつもだいたい30分で終わる。ちょうど、コインランドリーに入れたものの洗濯が完了するくらいの時間だ。
両親がファンなのもあって、僕はユーミンの楽曲をほとんど知っている。そして、親元から離れてひとり暮らしをするようになって、時々はなんともいえない寂しさを感じるようにもなった。そういう時にここに来て、ユーミンねえさんの歌を聴いていると癒される。
というのもあるが、ここに来る理由は、もうひとつあった。もっとも、今日はちょっと気まずくて、見つかりたくない気持ちもあるが。
「あ、池田くんやっ」
腰まで伸びた黒い髪を靡かせて、彼女が僕の肩を軽く叩く。速攻で見つかってしまった。もうちょっとでコーヒーを溢すところだった。
関西弁で話す彼女は、大阪出身の石橋さん。僕と同じくひとり暮らしをしている、ひとつ上の大学2年生だ。借りているアパートの部屋が隣どうしで、ともに平和コインランドリーの常連、なおかつ彼女もユーミンが好きであることから、顔見知りになり、会えばしばらく雑談を交わすくらいの間柄にはなっていた。
とはいえ……。
「昨日あげたチョコ、食べてくれた?」
純真無垢な瞳で僕を覗き込む石橋さんを見て、慌てて首ごと逸らしてしまう。こんな反応をしてしまう時点で、自覚している。僕は、石橋さんが、好きだ。もう、ずいぶんと前から、そう思っている。だけど、ずっと自分の気持ちを言えていないままだ。
去年のユーミンの50周年記念ツアーの公演日、お互いに行くことを知っていたのに、一緒に行こうと言えずに、結局は別々に行った。
クリスマスの日には映画にでも誘おうかと思ったが、怖くて予定よりも早く実家に帰ってしまった。
成人式の振り袖姿の写真をLINEで送ってこられた時には、これはチャンスかもしれないと思ったが、やはり文字を打つ手が震えて、スタンプを素っ気なく返しただけだった。
気がつけばもう、年が明けてバレンタインデー。の翌日。明日からは運転免許の教習合宿がある。石橋さんも同じタイミングで免許を取るらしいが、合宿中の寮は男女別だし、合宿が終わったら実家に帰る予定なのでしばらく会えない。
「なあ、食べてくれたん?なあ、って」
首を逸らしても追いかけてきて、唇をつんと上げながら僕を追い詰めてくる。その、唇をつんと上げる仕草も好きなんだ。
「……まだ、食べてない。ごめん。冷蔵庫で冷やしてるから」
食べた、と嘘をつくことも頭をよぎったが、口が咄嗟に本当のことを言った。冷蔵庫で冷やしてるから、は食べていない理由になりえないと思うのだが、石橋さんはほっとしたように息を吐いた。
「そっか、キットカットも冷やして食べたらおいしいもんなあ」
「ごめん……。今日帰ったら絶対食べる。絶対おいしくなってるから。あ、いや、もとがおいしくないわけじゃなくて、もとからおいしいけど、さらにおいしく……」
何を言っているのだろう、僕は。わけのわからないことを言っている僕を見て、石橋さんの表情がだんだん柔らかくなってくる。こんな優しい人が僕のために作ってくれたものを、なぜ僕はまだ……。
……チュッ……。
ん?
頬に、なにか柔らかい感触がした。これはなんだろう、と思うよりも先に、みるみる自分の顔が赤くなっているのを自覚した。
石橋さんの唇が、さっき一瞬、僕の頬にくっついた。これは……。
「ウチの手づくり。常温でもいけるやろ?」
ちょっと意地悪そうな顔をして、また石橋さんが唇をつんと上げる。この唇が……さっき……。いや、いったん落ち着こう。
残っていたコーヒーを、僕は一気に飲み干した。あれ?これアイスコーヒーだったっけ?いや、僕のほうがホットになっているのか?
「問題っ。さっきのやつは、英語でなんというでしょうか?」
「…………………………………好き」
「え?なんて?もっかい言うて」
「うん……」
声が小さすぎる。がんばれ僕。今日こそ、今日こそ、言うんだ。
「僕は、石橋さんが、好き、です!」
ついに言えた。
「……ブーッ。正解は『キス』でした。でも、語感はめっちゃ似てるし」
……チュッ……
「正解にしときます。それから……」
「そ、それから……?」
「いや、それは、チョコに書いたから」
「はい、後で必ず食べます」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
「なんで逆によそよそしくなっとんねん。ウチら今、カップルやろ」
石橋さんは僕の肩に寄りかかり、マフラーを僕の頬に当てた。さっき石橋さんの頬が触れたところに、カシミヤの心地好い感触が当たる。でも、カシミヤをもってしても、石橋さんには勝てない。
ユーミンねえさんの路上リサイタルは続く。いま歌われているのは『きっと言える』。かなり初期の、荒井由実時代の曲だ。知らない人が多いのか、いつもよりはギャラリーが少ない。
もちろん、石橋さんと僕は、この曲を知っている。空になったコーヒーの紙コップを左手で握りつつ、右手を石橋さんの肩に伸ばした。
「あなたが好き きっと言える」
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