野原ひろしの姿をした男に擬態する
かつては恥ずべきものとされていた、ひとりで外にごはんを食べに行くという行為が、わりとメジャーなものになったののは、ドラマ『孤独のグルメ』のヒットによる影響が、多かれ少なかれあると思われます。
『孤独のグルメ』は、輸入雑貨商を営む井之頭五郎という中年のおっさんが、淡々とひとりで黙々と外食をする、という内容ですが、この井之頭五郎という存在を、『クレヨンしんちゃん』の主人公のしんのすけの父親、野原ひろしに置き換えた漫画が、『野原ひろし 昼メシの流儀』です。
『クレヨンしんちゃん』については、もはや説明するまでもなさそうなくらいに国民的ファミリー作品として浸透しており、中でも35歳サラリーマン係長の野原ひろしが映画で見せるその男ぶりには定評があり、漫画・アニメに出てくる理想のお父さんキャラクターランキングで、いつものように堂々の1位に君臨しています。
あと、現代の感覚でいえば、野原ひろしは充分に勝ち組であるという風潮もあります。というか、実際に勝ち組です。
長年のローンを組んだとはいえ、家は2階建ての一軒家でガレージ付き。さらには、小さい犬が走り回れる程度の広さの庭もある。
勤続の御褒美で海外旅行をプレゼントされたり、重役が家に泊まりに来たり、まあ原作の連載時がバブルの残り香の漂う頃だったことを差し引いたとしても、なかなかに潤っている企業にお勤めで、重役に家庭訪問される程度には信頼されている模様。
これ、自分が子供の頃、ひいては20代、いや30代になったあたりまでは素直に、「野原ひろしって勝ち組よなー」などと笑っていられたのですが、いざ野原ひろしと同じくらいの年齢になると、それとはまた違う感情が芽生えてくる。あ、いや、うん、わたくし14歳なんですけどね。マインド的にはね。
今から野原ひろしを目指す気にはなれない。かといって、実際になってみれば、35歳なんてまだまだ若い、というか青い。
嫁のみさえさんの29歳なんて、ピッチピチのギャルじゃねえのか。しんちゃんは自分のオカンの魅力をわかっているのだろうか。そういえば、初期のしんちゃんの推しタレントは小宮悦子さんだったが、当時の時点で小宮悦子さんはみさえさんより年上なんだよね……。
いや、年齢の話はともかくとして、『野原ひろし 昼メシの流儀』について語ろうかと思うのですが、この作品、つまりは『クレヨンしんちゃん』のスピンオフ作品のひとつです。
有名な漫画のスピンオフ作品で、自分が他に読んでいるものには、『賭博黙示録カイジ』のスピンオフである『1日外出録ハンチョウ』、『名探偵コナン』のスピンオフである『犯人の犯沢さん』などがあるのですが、このふたつのスピンオフ作品と『野原ひろし 昼メシの流儀』には、ある明確な違いがあります。
それは……、あの……、わりと言いにくいことではあるのですが……。
作者さんが、あまり『クレヨンしんちゃん』自体に思い入れなさそう。この一点に尽きる。
間違っていれば、本当に申し訳ないのですけども……(保険)。
『1日外出録ハンチョウ』の原作者の萩原天晴先生は学生時から福本信行先生の大ファン、『犯人の犯沢さん』の作者のかんばまゆこ先生もまた、スピンオフ企画が決まる前からコナンの大ファンだったそうです。
どちらも本家の作品の細かい設定をイジるようなネタが随所に組み込まれており、本家をある程度以上に読み込んでいないとなかなか描けないような仕上がりになっているのに対して、『野原ひろし 昼メシの流儀』は、ほとんど本家の作風との関連性が見られない。
というか、このスピンオフ作品を執筆するにあたって、もちろん作者さんは本家の基本設定についてはチェックされたであろうが、全50巻すべてを熟読はされていないのではないかと……。
もっと言ってしまえば、野原一家と川口(ひろしの直属の部下)以外のキャラクターをよく知らないのではなかろうか。失礼ながら、そう感じてしまう部分があるのですよね。作中にチラッとだけ出てくる、みさえさんやしんちゃんの挙動にしても、みさえさんやしんちゃんって、そういう反応するかなあ?という場面がいくつか……。
もはや根本的に、別に主人公が『クレヨンしんちゃん』に出てくる「春日部在住の野原ひろし・妻と2人の子あり・35歳」である必然性がない。
「横浜在住の福田けんいち・彼女いない歴7年・31歳」だろうが、「京都在住の三浦こうたろう・バツイチ・43歳」だろうが、話が成立してしまうんですよね。
一部のネット界隈では「自分を野原ひろしだと思っている一般人」などと言われてしまっていますが、逆にいえば、野原ひろしの姿をしていながら、あまり野原ひろしっぽくない人物がそこにいることによって、リアルな自分を彼に投影しやすくなっているともいえると思います。
なんやかんや結構いい店に行っている『孤独のグルメ』や、巻数が進むにつれて遊びのバリエーションが増えてきた『1日外出録ハンチョウ』と違い、この『野原ひろし 昼メシの流儀』は、あくまでフツーの飲食店にしか行かず、あくまで昼メシを食う話しかないという、前にも横にも進まない安心感がある。
俺は野原ひろしにはなれないが、野原ひろしの姿をした男に擬態することはできる。野原ひろしの姿をした男がただ昼メシを食べるだけの漫画を、私は今週も読む。そして真似をする。