短編小説 海の思い出など
翔太は足首までの位置に入ると、まだ砂浜にいる娘を呼んだ。
「ほら、みぃちゃん。パパの所までおいで」
深雪はまず翔太と手を繋ぎ、それから引いた腰をゆっくり海の方に動かした。
「ぬるいね」
拍子抜けしたような声を出す深雪がなんだかおかしくて翔太はふきだした。
浮き輪の真ん中に体を入れている深雪は、一度越えれば怖さも無くなったらしく翔太より先でぷかぷかと浮き始めた。浜に視線をやれば完全防備の妻が小さく手を振っている。
「みぃちゃん、もう少し奥まで行くか」
「いいよ」
足を離している深雪を引きながら翔太は自分の腰の辺りまで海の中へ入り込む。休日の海水浴場は人が多く、かといって空いている所に行くには連れが幼すぎる。周りを互いに気遣いながらの場所で深雪の浮き輪に手をやりぬるい海水を堪能する。深雪は顔にかかった海水に苦々しい顔をして舌を出した。
「ママも来ればいいのに」
「そうだな、後で交代するか」
妻は荷物番をかってでたが日にやけるのがいやなのだろう。水着すら着ていない。妻を責める気は全くない。翔太だって誘われなければ海水浴だなんて思いつきもしなかったのだ。仕事が終われば晩酌やゲーム、たまには家族サービスでもしないと弾かれてしまう危機感があった。
「海初めてなのわたしだけ?」
「そうだな、若い頃ママとパパは来たよ」
「じゃあママはいっぱい泳いだんだね」
深雪も何となく察している、ママは海には入らないと。二人で視線を浜に流した。妻は日傘で顔が見えない。
深雪の背中に隣のカップルがふざけてかけあった水がかかる。深雪は気持ち良さげに空を見上げた。
妻と初めて海に来たのは夜だった。だから水着を見たいなんて下心はなかったが、波の音を二人で聞いているだけで気持ちが昂った。このあとどうするかをどう切り出そうか悩んでいる時に、妻は、この頃はただの依子だったが彼女は遠くを眺めていた。なびく髪が、遠い目が綺麗で翔太は言葉を無くしたのだった。
翔太の顔に水がかかる。楽しげに笑う深雪が懸命に海水を掬う。浜に視線をやる。依子がこちらを見ている。翔太は思わず深雪を抱き上げた。
「どうしたのパパ」
「ママを呼びに行く」
そうなの、と深雪は浮き輪が落ちないように翔太に抱きつく。
だめよ、水着持ってきてない。と依子は言うだろう。そんなものいくらでも買ってやると翔太は思う。三人で海に入ろう。誘いたかった。深雪の濡れた髪が肩に気持ち良い。依子にも味わわせたかった。