あの頃の言葉が、今の私に教えてくれたこと
中1の4月、教室に行くと「今、何する時か?」と達筆な毛筆でデカデカと書かれた模造紙が教室の黒板の上に貼ってあった。年度の始めに、クラスの命題として掲げられた。
それを考えたのも、書いたのも、担任教師だった。アラフォーで角刈りの、剣道部の顧問。スラックスに、襟付きのシャツをシャツインして着ていて、いつも姿勢がいい、社会科の教師だった。
これだけ書くとクソ真面目教師のような印象だけど、彼は生徒から人気があった。エピソードトークをいくつも持っていて、剣道の試合前に納豆を食べて、匂いで相手を錯乱させて一本取ったこととか、今の奥さんと結婚する前、喧嘩して振られそうになって、泣きながら車で房総半島を暴走した話を面白おかしく話してくれて、時には教科書1ページも進まず授業が終わるということもあった。私も大好きだった。
でも逆に、授業が丸々1時間、説教で終わることもあった。何をするにつけても私たちは「今、何する時か」を意識させられた。授業開始5分前には席に着いていること、集会での整列の時には縦横ピシッと列を揃えて喋らずに前を向いていることなど。
時間や規律に厳しい人で、私たちは度々「今、するべきこと」が出来ていないと叱られた。そのインパクトは凄まじいもので、私たちはきちんと規律を守る、学年中でもかなり統制のとれたクラスとして存在していた。
あれから20ウン年、度々この言葉を思い出し、懐かしんだ。でも、あの時の効力はもう持っていなかった。
受験勉強がほとほと嫌になり、寝っ転がってエヴァンゲリオンを一気見していた時も、どうしても面倒くさくて大学の授業をサボった時も、溜まった洗濯カゴを目に入れないようにしてSNSをダラダラと眺めている時も、「今、何する時か」と頭にはよぎりつつも、まぁまぁ、といなしながら、「今、するべきでないこと」に夢中になったり、無為に時間を費やしたりした。
でも、その言葉の感じ方について、最近、自分の中で変化があったのだ。
ここ何年か、何かをしていても、頭は常に先へ先へと走っている感覚がしばしばあった。
お皿洗いをしながら、「明日のお弁当の準備もゴミ出しの準備もしなきゃいけない、仕事の段取りも組まなきゃ…」とひとりタイムトライアルを開催していたし、
「もっとラクに生きるにはコレが合ってるかもしれない、いや、コッチかもしれない」と、様々な可能性を探っては試して、探っては試そうとしていて、まるで、万年ダイエッターのようになっていた。
私にとっては、山積みになっている気になること、心配ごとをゼロにすることがゴールだった。
家事も仕事も完璧にこなすことで自分はちゃんとやってると認めてあげたかったし、理想的なお金の稼ぎ方を見つけることで安心したかった。
でも、ゴールは全く見えなかった。
家事は次から次へと湧いて出てくるし(そしてそれが気になってしまうタチ)、理想的なお金の稼ぎ方を習得して結果を出すにはかなりの時間を費やすことが必要だったけど、なんせ堪え性がなかった。
なんとなく、生き急いでいる感覚だった。ミステリー小説の犯人を一刻も早く突き止めたくて、主人公の細かな心情描写を読み飛ばしている時のような。そして、結局辻褄が合わなくなり、どうしてこうなっているんだ?と数ページ戻って確認する時のような。
そんなようだったから、なんだかものすごく、「今」を見失っていた。
「今」を見失っている自分は苦しかった。常に焦り、常に迷いの中にあった。
家族にも指摘された。いつも落ち着きがないように感じるし、なんでそんなに焦っているのかと。苦し紛れの弁解をしつつ、指摘されたことは、間違いなくその通りだと頭では分かっていた。一体、いつになったらわたしは腰を落ち着けて休むことができるんだろうと悩んだりもした。
家族に言われると少し立ち止まることができた。「今を生きる」でググったり、「今を生きるにはどうすればいい?」とAIチャットに聞いてみたりした。
「今を生きる」に悩む人は他にもたくさんいるらしく、「今を生きる方法」についてきれいにまとめられたページがいくつか見つかった。
AIもすんなりと色々な正解を教えてくれた。瞑想をしてみたり、自然の中でリフレッシュすることなどなど。難しいことでは全然なかった。その中に、「目の前のことに集中する」というのもあった。先のことを考えず、ただ目の前のことに集中して取り組む。
…あぁ、わたしに出来ていないのはこれだなぁと思った時、かつてのあの教室に掲げられた「今、何する時か」の文字が頭に浮かんだ。
そうか、と思った。
それは叱られていたあの時とはまた少し違った感覚だった。
これまでは、「今しているそれは、今するべきことなのか?他に何かすることがあるんじゃないのか?」というメッセージとして受け取ってきた。
でも、この時は違った。
「今しているそれは、今しなくてもいいことなんじゃないのか?他の時でもいいんじゃないのか?」というメッセージだった。
まるで、重たいリュックをやっとこさ降ろせた時の解放感があった。
そのメッセージは、ある意味ではかつてと逆の意味のようにも感じられた。
大人になると、やらなきゃいけないことがどんどん増えていく。仕事に家事、家族のことやお金のこと。それに伴って心配ごともどんどん増えていく。
未来の心配ごとも全部飲み込んでしまって、溺れそうになったとき、もしかしたらこの言葉を思い出して欲しかったのかもしれない。角刈り担任教師の、芯の通った目を思い浮かべた。
それから、わたしは時折「今、何する時か」と心の中で唱えるようになった。あの時、私を統制し、少し窮屈さを感じていた言葉が、解釈を変えたことでわたしの心を軽くしてくれている。
未来への焦りは、全くなくなったわけではない。心配ごともゼロではない。でも、今心配しても仕方のない種類のこともある。そういう類のものは未来の自分に預けて、今は目の前のことをやる、ただそれだけ。そう思えた今は、「今」を取り戻している感覚がいくらかはある。
以前は、家事をしながら動画を見たり、仕事のことを考えたりしていたけれど、まずは動画や仕事のことは一旦忘れて家事に集中する。歩きながらラジオを聴くのも好きだけど、たまにはラジオを切ってただひたすら歩くことに集中する。小さなことだけど、今はそんな時間を増やすようにしている。そうすると、時間の流れがゆるやかで、しっかりと地に足がついているような感覚がある。
「今、何する時か」は時間を超えたプレゼントのような言葉だと、今では思う。わたしが「今を生きる」ことに悩まなければ、この言葉を思い出さなければ、こういう解釈は生まれなかっただろうし、はたまた、まだ違う解釈があるのかもしれないとも思う。
そして、もし、私たちのクラスに意地悪な生徒がいたら、エピソードトークを繰り広げる先生に向かって「今、何する時か」などと言う生徒がいたかもしれないと、少しばかり思う。クスッと笑う私たちと、苦笑いする担任教師の顔が目に浮かんだ。