あれもこれも全部こわい
子どもの頃からいろんなものに怯えて暮らしている。
ずっとなにかに怯えている。
怯えすぎて体調を崩したり睡眠不足になったりして、ずっと生きている。
大人になったら、もっと鈍感になって、いろんな怖いものがへいちゃらになって、のびのび暮らせるんだと思っていたけれど、やっぱりいつだってなにかに怯えて暮らしている。
なんなら、大人になるほど、この世のおそろしいものをたくさん知って、右を見ても左を見ても、こわいものだらけになってしまった。
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子どもの頃はとにかく戦争が怖くて、ひたすらに怖くて、しょっちゅう枕を濡らしていた。泣いて泣いて、泣きすぎて眠れなくて、怖い気持ちがこんこんと永遠に沸いてきて、「最初は父が出征したらどうしよう」だったのが、そのうち、普段存在を思い出しもしない叔父の出征まで心配になって、そのうち、今まさに戦火の中にいるような気持になって、今どうにかかろうじて生き延びたとしてもこんな激しい戦乱の世ではいつか生まれる私の子どもが大きくなれないかもしれないし、子どもが長生きしても、孫は戦死するかもしれない、とかもう、永遠に数珠つなぎの恐怖がそこにあった。
今思うと恐怖がかなり複雑に絡み合いすぎて訳が分からないことになっているんだけど、当時の私はものすごく真剣にだぶだぶと枕を濡らし続けていた。
そのうち、聡明な友人のひとり、なっちゃんにより、日本はとうに終戦していることを知る。私が生きているのは戦乱の世ではない、とその時初めて知った。学校の廊下には8月の登校日に戦争の悲惨な写真を並べるだけ並べておいて、誰もそんな肝心なことを教えてくれていなかった。
これで一安心、と思いきや、そうは問屋が卸さない。
その後、私の不安を煽ったのは、「太陽が燃えている」ということだった。
燃えているということは、いつか燃え尽きるということではないの、と気がついてしまった。
父に、訊いた。
「太陽が燃えてるってことは、いつか燃え尽きるんじゃないの……?」
「そういうこともあるかもしれないねぇ。でもあるとして何億年も先の話だよ」
絶望した。
今ではない、いつか。太陽は燃え尽きるのだ。
そして、花は枯れ、地面は乾き、永遠の夜がやってきて、生き物はすべて死んでしまう。この世の終わりでしかない。
いつかそんな最悪のシナリオがこの地球に待っているのだと思うと、すべての「果て」を見たような気がして絶望した。
そして、また、私のまだ見ぬ子孫がその絶望の暗黒地球に立っているのかもしれない、と思うといくらでも涙が出た。
ノストラダムスに富士山噴火、こわいものなんて永遠にあった。
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そんなふうに怯え癖が子どもの頃に板についてしまったので、私はずっと何かに怯えて生きることになってしまったらしい。
しょっちゅう、見えないなにかに怯えて動悸が激しくなっている。
流石に太陽の果てを思って泣くことはもうないけれど、いつか来るかもしれない自然災害とか、私の不注意が起こすかもしれない火事とか、事故とか、家族の災いとか、もうあらゆることが怖ろしい。
そんなふうに常に何かが怖ろしいので、夫が「子どもたちをどこか連れて出かけてくるからゆっくりしなよ」と言われるのも、簡単に喜べない。
離れている間になにか起こったら、私だけが無事だったとしても、私だけが残念な結果になったとしても、いずれも受け止めきれない。
どこかと言わず、近所の公園程度の距離でお願いしたい。どうか遠くへ行かないで。
彼らが無事に帰宅するまで心が休まらないのだ。
こわくてこわくて、たまらない。
一旦、なにかがおそろしくなると、世界がすべて真っ黒になってしまって、あの、戦乱の世を生きていた小学生の頃と同じ眼になってしまう。
そういうとき、姉妹や夫に、ただ「大丈夫」と言ってほしくて LINE をしたり、弱音をこぼしたりする。
「どうしよう」と「不安」を吐露して「大丈夫」と言ってもらう。もはや一連の流れ。
みんな私の性分を熟知しているので、慣れたもので、私がほしい言葉をちゃんと知っていてちゃんと言ってくれる。
「大丈夫」私はそれがほしいのだ。
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ただ、私はこれでも一応お母さんなので、こんなにあれこれ怯えていることを子らに悟られるわけにはいかない。
ピュアでまっすぐな子どもたちがもし、無闇に怯えることを覚えてしまったら、人生がいちいち意味を持ちすぎて大変なことになってしまう。
私は日々、今日を生き延びることで頭がいっぱいだけれど、そんな生き方が正しいとはちっとも思っていない。
今日を生きることだけが目標になると、夢も希望も持つ必要がなくなってしまうし、科学の発展も目覚ましい芸術作品もこの世から生まれなくなってしまう。
晴耕雨読、自給自足、マニュファクチュア、ですべて事足りてしまうよ。
人類の発展は、恐怖とある程度切り離された場所で行われてきたんだと思うんだな。本気で。
もちろん、より安全と、より安心と、より幸福に向かって発展した部分も多いにあるとは思うのだけども。それはやっぱり、恐怖に対して聡明な整理をつけることができる人のなせる業だったわけで。
日々はもちろん奇跡の連続で、生きていることそのものが奇跡なんだけれど、あんあまり奇跡だ奇跡だってありがたがっていると、ずっと膝ががくがくしてしまう。
今、飲んでいる水が、誰かが飲みたくて飲めなかった水だと思ってばかりいるとお水遊びなんて到底できないし。
私がこんなに怖がりの心配性で、不便で遊びがないのは性分だからもはや仕方がないのだけど、せめて子どもたちはこんなふうに世界に怯えないでほしいな、と常々思っている。
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因みに、私が今いちばん怯えているもののひとつが寄生虫。
公衆衛生がずいぶんと行き届いた今の日本でそこまで気にするものじゃないと言われたらそうなんだけど、だからこその盲点感がそこにあって。
そんな怖ろしいものがまだ隠れとったんか、てめえ、という気持ち。
先日なんて恐怖が行き過ぎて、夫がスルメイカにナメクジをトッピングしたものを「つまみに最高」と言って食している夢を見た。
夢の中ではもちろん、私はパニックになり、怒り狂って、ナメクジに潜むおそろしい寄生虫について喚いてた。喚いているそばから子がつまみ食いをしようとするので、ますます喚いていた。
とても嫌な夢だった。
まったく気が休まらない人生を生きていると思う。