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「自分で」選ぶとはどういうことか?

It is our choices, Harry, that show what we truly are, far more than our abilities.
君の選択次第だよ、ハリー。何ができるのかよりも、何を選ぶのかが、自分自身をよく表すんだ。

アルバス・ダンブルドア――『ハリー・ポッターと秘密の部屋』:引用者訳出

なんとなくnoteの通知を開いてみたら、「投稿コンテスト「#自分で選んでよかったこと」を開催します!」という文字列。
「ある人(A)が、A自身の利益を損なうことが予想される選択をしようとしているとき、Aと向き合っている他者(B)は、それでもなお、本人が決めたこととしてAの選択を尊重すべきなのか?」という問いをもって研究している私。
「何か書かなきゃ」と思い、ほとんど反射的に投稿ページを開いた。

「選択」というのは、日常的に用いられるありふれた言葉だけれども、いや、だからこそというべきか、複雑な行為であり、概念である。
とりわけ「自分で選ぶ」ということは、「自由な選択」と関わっていて、確からしく「自分で選んだ」と言い切るのは意外と難しい。
私は、完全に自由な選択など、存在しないと考えている。
私たちは、常にさまざまなヒト・コト・モノに規定されながら、限られた選択肢の中で選択をしなければならない。選択肢の限られ方に幅があって、その程度によって、私たちは自由だとか不自由だとかを感じているに過ぎない。そのような意味で、ひとは、完全に自由な選択をすることは不可能と言ってよい。

だから、「自分で選んだ」ということは、厳密には、ある選択についての「最終決定者」が自分だったということを意味しているにすぎず、「自分の意志でその選択をした」ということとは異なる。と、私自身は考えている。

どういうことか。

哲学者、國分功一郎氏は、ハンナ・アレントによる意志の定義―何ごとかを開始する能力―に基づきながら、意志と選択の違いについて次のように述べている。(長い引用ですが、例えを省略してしまうとわかりにくくなるので、お許しください)

選択とはこの世界に満ちあふれている事実である。行為は常に実現されなかった行為を伴っている。たとえば私がリンゴを食べたのだとすれば、それはミカンでもスイカでもなくリンゴを選んだのであり、あるいはまた、「リンゴを食べない」という選択肢ではない方の選択肢を選んだのである。その意味であらゆる行為は選択である。
世界に満ちあふれているこの事実は、さまざまな要因の総合として現れる。リンゴを食べたのは、身体にビタミンが不足していたからかもしれない。昨晩、おいしそうなリンゴの映像を見たからかもしれない。あるいは、何者かに「リンゴという果物はおいしいよ」と唆されたからかもしれない。・・・
とにかく、過去にあったさまざまな、そして数えきれぬほどの要素の影響の総合として、「リンゴを食べる」という選択は現れる。それはつまり、過去からの帰結としてある。

ならば、このような選択と区別されるべきものとしての意志とは何か?それは過去からの帰結としてある選択の脇に突然現れて、無理やりにそれを過去から切り離そうとする概念である。しかもこの概念は自然とそこに現れてくるのではない。それは呼び出される。
「リンゴを食べる」という私の選択の開始地点をどこに見るのかは非常に難しいのであって、基本的にはそれを確定することは不可能である。あまりにも多くの要素がかかわっているからだ。
ところがそのリンゴが、実は食べてはいけない果物であったがゆえに、食べてしまったことの責任が問われねばならなくなったとしよう。責任を問うためには、この選択の開始地点を確定しなければならない。その確定のために呼び出されるのが意志という概念である。この概念は私の選択の脇に来て、選択と過去のつながりを切り裂き、選択の開始地点を私のなかに置こうとする。
[※本文の傍点部分を太字で表記]

國分功一郎(2017)『中動態の世界――意志と責任の考古学』(p.131)

つまり、選択は、私たちが実際にしていることであり、記述可能であるけれども、意志は、あくまで後付けの、人の頭のなかで現れるものである。実際に意志がそこに存在するわけではない。

選択は、自分で全く新しく何かを始めることではない。
選択は、誰か(何か)から呼びかけられたとき、自分は、それに対して応答するのかしないのか、応答するならどのように応答するのか、それを決めることである。(本当なら、「呼びかけ」とか「応答」をめぐって、レヴィナスあたりの哲学者の議論をちゃんとしなければいけないだろうけど、専門外すぎるので、すっとばします。許してください。)
もう一度、冒頭(エピグラフのあと)の文章を思い起こそう。

なんとなくnoteの通知を開いてみたら、「投稿コンテスト「#自分で選んでよかったこと」を開催します!」という文字列。
「ある人(A)が、A自身の利益を損なうような選択をしようとしているとき、Aと向き合っている他者(B)は、それでもなお、本人が決めたこととしてAの選択を尊重すべきなのか?」という問いをもって研究している私。
「何か書かなきゃ」と思い、ほとんど反射的に投稿ページを開いた。

私がした、「この記事を書く」という選択は、note公式からの呼びかけと、過去から連続している私――選択にまつわる研究をしてきた私、noteを始めた私、ここ数週間集中力が続かない私――がぶつかって立ち現れた帰結である。私は、このコンテストがなければ、こんな記事は書き始めていない。フランクに言えば、「も~、こんなコンテストやるっていうから、記事書き始めっちゃったよ~」である。
でも、コンテストという呼びかけに対して、応答することを選択したのは、間違いなく私だ。応答しないという選択もあったのに、である。


ただ、選択のやっかいなところは、それがいいのかどうかが、あとになってからしかわからないことである。

私は、博士課程に進学して3年目だけど、博士課程に進学するという選択がよかったのかどうか、まだわからない。
バイトをしなくても生活ができるようなお金をもらいながら、研究ができていること自体は、とてもありがたいし、自分の研究にわくわくしているときは、この道に進んでよかったと思う。
でも、この先、任期期限がない職にちゃんと就けるのかどうか不安になるし、母がもう「孫がほしいな~」「彼氏とかいないの?」なんて言ってこなくなったことに気づいたとき、この道を選んでよかったのかどうかわからなくなる。

結果的にうまくいけば、「選んでよかった」だし、うまくいかなかったら、「選ばなければよかった」になるだけなのだ。うまくいかなかった場合でも、その経験があとでどこかで活かされれば、そのときによかったと思うだけだ。結局、選んだ選択肢を「よかった」と思えるようにできることをやるしかない。
記事を書き始めてしまったのだから、自分の頭の整理にもなるように、読み手にも伝わりやすいように、わかりやすく書く工夫をするだけだ。


ここまでの話は、実は、私の研究に直接的な関係は全然ない。

私の研究は、選択そのものではなくて、選択に対する支援を問題にしている。
ひとは、あとでよかったと思える選択にするために、いろいろと悩む。その内容が専門的な知識を必要とすればするほど、専門家の力を必要とする。医療なんかはその典型だし、教育でももちろん生じる。

支援は、支援者と被支援者の間に非対称な関係を生じさせる。支援する-されるだけの非対称性じゃない。被支援者は、その「困りごと」の内にいて逃げられないが、支援者は、被支援者の「困りごと」の外にいて、ともに考えることはできるけれども、その「困りごと」について下した選択がもたらす結果まで一緒に背負うことは難しい。

それでも、被支援者があとで「選んでよかった」と思える選択ができるように支援しなければならない。それも、支援者自身がいいと思う選択を押し付けるのではないやり方で。

では、どのように?
――その先は、本当に私の研究成果の話だから、これ以上は内緒。

私は、博士課程に進学したことがよい選択だったかどうかはわからないけど、この問いと向き合うという選択をしたことは誇りに思っている。




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博士のたまご
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