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ヤンキーとセレブの日本史 Vol.2 飛鳥奈良時代 その1

仁義なき戦いとしての仏教伝来

時代は6世紀。この時代、朝廷の力が強くなってきました。
しかし、まだヤンキーの時代です。有力な部下たちは兵隊を多く抱えています。天皇が何でも自由にできるまでの権力はありませんでした。

そんなときに、仏教が伝来してきて、この仏教を信じるかどうかの問題が発生します。天皇は有力組長二人で話し合って決めろと言いました。
そこから、一門内の勢力争いが始まります。

抗争は、大陸とのコネが強く新しい技術にも強い蘇我一家と、
代々伝統的な国の祭祀(神様をまつる儀式とか)を取り仕切ってきた物部一家の間でおきます。

仏教を信じるかどうかで、なぜここまで揉めるかというと、それは一門内の勢力争いでもあるからです。
後から勢力を伸ばしてきた蘇我一家からしたら、既得権益で強い勢力を持っている物部一家を追い落とすためには、その権力の源泉である祭祀を取り仕切る権限を弱めることが必要になります。それに先進国からの進んだ文化はいつの時代も眩しく見えるものです。

ヤンキーも特攻服に「仏恥義理(ぶっちぎり)」と
刺繍するが、仏教とは何も関係ない。
(引用 変形学生服 特攻服刺繍 コーソ

結局最後はヤンキーらしく、暴力で白黒つけることになります。
この時に勝ったのが蘇我一家。だから、日本はこの後に仏教を信じることになりました。その陣営にいたのが廐戸皇子(聖徳太子)です。
ライバルがいなくなった蘇我一家はやり放題で、自分の言うことを聞かない天皇まで暗殺する始末です。
そして、天皇の后だった女性を推古天皇として即位させ、女性が一人で政治をするわけにはいかないと聖徳太子を摂政という補佐職につけ、蘇我一家が影響力を発揮する政治体制ができたのです。

なぜ蘇我一家は新王朝を作らない?

政治学の世界では、国の統治には「権威」と「権力」の2つが必要だと考えます。
権威というのは「皆が尊敬し、その人の言う事に正当性を感じて従う力」です。権力とはつきつめれば暴力に裏打ちされた「最終的に人に強制させることができる力」です。

ケンカが強くともみんなに信頼してもらえなければ国は治められないし、どんなに皆に慕われていても武力を持っていなければすぐにぶん殴られて服従させられます。

天皇家は日本においては、神の子孫であるという位置づけから祭祀を執り行う役割を持ち、権威を司るようになってきました。

権威を持つと武力で圧倒する権力者も手出しが難しくなります。
なぜなら権威を持つ人を排除しても自分がそのポジションにつく正当性がないのですから。神とつながっている立場は、ぶん殴って奪えるものではありません
なので、最大限できることとして、天皇制は維持した上で、自分の言うことを聞く人物を置くということが限界です。
日本の歴史では、この権威と権力の分離ということも一つのポイントになってきます。

暴力だけでは解決しない。権威もなければ統治はできない。

例えば中国では皇帝が権威と権力を両方持ちます。だから、王朝が変わる際には、前の王朝があまりにもひどくて天が見放したという建前を掲げ、根絶やしにして新王朝を作らなければなりません。
早い時期から権威と権力が分立したことが、天皇家が世界で最も長く続く皇室であるという理由の一つではないでしょうか。

抗争に備えた組作り 聖徳太子の改革

この時代、朝鮮半島では抗争が続いており、そこに中国(隋)も絡んできています。
古代は朝鮮半島は完全に外国ではなく、親戚団体のようものなので、そこの政情不安は一門の大きな関心事です。

外国との抗争の準備をするには、組織を強くすることを目指します。
そのためにやることは、実力のある奴を抜擢することです。そこでできたのが「冠位十二階」という実力評価の人事制度です。
ただし、これは天皇家や蘇我一家が権力を持つためのものなので、完全に実力性を徹底して蘇我一家が排除されたら本末転倒です。なので、当然天皇家と蘇我一家はこの冠位を超越した存在として君臨します。

それとあわせて作ったのが「17条の憲法」です。仏教を大事にし、天皇を中心とした国を作るということと、役人の仕事の心構えが書いてあります。
人事制度と評価基準はセットのものです。天皇を中心として役人が公平公正に仕事をする国家を作りたいという理想が見えてきます。

暴走族の心構えを説いた掟

その他にも聖徳太子は隋に遣隋使を送り、手紙で隋の皇帝をブチ切れさせるということもしています。

ただし、聖徳太子とその功績に関しては多くの説があるようです。厩戸皇子は実在したようです。聖徳太子は厩戸皇子をベースにして、天皇家の権威を高めるためにすごいヒーローのように書かれたという説もあり、また十七条憲法もこの時代より後に書かれたという説もあり、まだ決着していないようです。

けじめとしての大化の改新

蘇我一家はどんどん増長していきます。
推古天皇が死ぬと、自分の娘を嫁がせた舒明天皇を天皇につけてやり放題でした。
やりすぎて、ライバルの天皇候補の皇子まで暗殺してしまいました。

子分のくせに、親分の身内にまで手をかける横暴ぶりに怒ったのが、天皇の息子である中江大兄皇子。皇子は、本家の集まりに来ていた蘇我一家の長男入鹿を堂々とぶっ殺しました。それを聞いた父の蘇我蝦夷も自害しました。
この時に暗殺を一緒に手伝ったのが中臣鎌足という男で、彼はここから出世し、藤原一家という大貴族の家系を作ります
ここから天皇中心の政治が行われるようになります。中江大兄皇子は殺しのほとぼりが冷めた頃、天智天皇として即位します。
ここから始まる天皇家に権力を集める動きを大化の改新と言います。

ちなみに、その頃、隣の朝鮮半島では抗争が起きます。
日本が仲良くしていた朝鮮半島の「百済」という国が中国(唐)と高句麗(朝鮮半島の中国に近いところの国)に攻め込まれます。日本は援軍を送るのですが、負けて帰ってきます(白村江の戦い)。

権力を握ったら最初にやること

これはこの後も何度も出てくるのですが、新しく権力を取ったときにやることは、いくつかのパターンがあります。大化の改新はその最初の事例です。

  1. シマの召し上げ
    まずすることは、子分のシマ(領地)を本家が全部没収することです。
    シマは力の源泉。そんなものを持たせておけば、貴族でも地方のヤンキー集団でも寺でもどこでも力を強めて、政治に口出しをしてきます。
    なので、大化の改新では私有地を禁止し、すべてのシマは本家のお召し上げにしました。

  2. 上がりを搾り取る仕組み
    自分の信頼できるやつに権限を持たせて、上がりである税をしっかり搾り取る仕組みをつくることも大切です。
    天智天皇と中臣鎌足は、息の掛かった仲間を地方に派遣して、地方の豪族の組長達の力を抑えます。そして、上がりをきっちり搾り取る仕組みを作ります。
     

  3. 引っ越し
    これはケースバイケースなのですが、都を遷すときもあります。古代は通信手段が乏しいので、物理的に近くにいなければ政治参加できません。なので、既得権益を持つ奴らが口出ししにくくするために都を引っ越すということも、しばしば行われます。

殺しをしたのに天皇になれるのか?

蘇我一家は親分の身内を殺して殺し返されました。
中江大兄皇子はその蘇我一家を殺したのに天皇になれました。
なんか不平等ではないでしょうか。
この不平等なのがヤンキーの世界です。
下のものが上に手をだすのはご法度です。でも、上のものが下のものに手を出すのは大義があればいいんです。

法の下の平等などの考え方は、結構最近できたもので、なおかつまだそれを守れない人たちも世の中にはたくさんいます。歴史を見るときには、もっとヤンキー社会の価値観で見るとともに、私達が当たり前だと思っている法の支配や人権というものも全然当たり前のものではなく、人類の歴史から見たらほんの少しの期間局所的に広がっているだけの希少なものと思うことも大切ですね。

白村江の戦い後日談

実は、朝鮮半島で負けて帰った白村江の戦いの戦いの後、朝廷はそのまま唐が攻めてくるとビビって、城を作ったり兵隊を配置したりして守りを固めます。そして、もっと内陸の滋賀(近江)の方まで都も遷します。しかし、唐は攻めてきませんでした。

しかし、それだけの守りの負担は地元の豪族と呼ばれるヤンキー集団にかかってきます。勝ち戦でもなくシマもとれないのに負担ばかりかけやがってと地方のヤンキーたちは怒ります。それで、またシマを地元のヤンキーにも持たせることになりました。

大化の改新でせっかくシマを召し上げたのにまた元に戻りました。


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